No.18

ヘタリア

よろこびのうた。
▽内容:アメリカの誕生日への諸々の屈託を乗り越えようと頑張るイギリスの話。
                                                           





 アメリカの誕生日パーティーの招待状が来たのは、パーティーの一月ほど前のことだ。
 他の私的な目的も絡むパーティーなら招待状と前後して電話がかかってくることも多いのだが、こと彼の誕生日パーティーとなると、ひっそりと招待状が届くだけである。
 空気の読めない彼にしては、珍しく気を遣っているのだろう。
 その昔。まだアメリカの独立の衝撃から抜け切れていない頃、招待状とは別に、口頭でも来るように念を押されたことがある。
 その時は、自分から人の手を振り払って離れておいた挙げ句に自分との決定的な決別を突きつけたその日を誕生日にした彼に対しての怒りとだとか悲しみだとか……一言では言い表しにくいどろどろとした感情でいっぱいで。酷く詰って二度と招待状など寄越すな誘うな関わるなと告げた。
 彼は酷く傷ついた顔をして、短く「わかったよ」とだけ言って、去っていった。
 以来、口頭で直接誘われることはなくなったが、それでも彼の誕生日パーティーへの招待状は毎年必ず届いた。
 一体、なんの嫌がらせだろうと思った。
 最初に招待状が届いた年から、毎年届けられるそれを、何通も何通もむちゃくちゃに破り捨てた。
 破り捨てるだけじゃ足りなくて、燃やしてみたこともある。
 最初は封すら開けずに。
 そのうち、封は開けるようになった。
 添えられた、彼にしては珍しく常識的な手紙にも目を通せるようになったのは、そう遠い昔の話ではない。
 けれど、読んだ後は必ず破り捨てていた。
 どれほど素晴らしい文で誘われようとも、自分にとって彼の誕生日とは即ち、彼に裏切られた日だ。
 決定的な絶縁状を叩き付けられ、長い生の中で最悪の絶望を味わった日に他ならない。
 生まれてから、殆ど知らなかった《愛》というもの。
 それを教えてくれ、与えてくれ、与えさせてくれた唯一の存在が己の手を振り払い、あまつさえ銃をつきつけてきた日。
 初めて得た幸せから、一転して絶望の底へと叩き落とされた、最悪の日。
 どうしてその日を祝うことなど出来るだろう。
 彼の誕生日を祝う日など、一生こない。
 頑迷にも俺はずっとそう思ってきて、実際殆どそれは事実のように思われた。
 けれど時の流れというのは優しくも残酷なもので、記憶や感情というものは決して一所に留まっていてはくれない。
 人からは頑固だ古くさいだ過去にしがみつき過ぎだと散々に言われるこの俺ですら、二百年というのはそう短い年月でもなかった。
 百年ほど前……アメリカとようやくまともに会話を交わせるようになった頃から、俺は招待状を破くのを止めた。
 とは言え、祝う気分になど到底なれなかったし、返事など出せる筈もなく。それどころか、届いた招待状を見るのもやはり辛く、鍵のかかる書類入れにひっそりとしまい込むようになった。
 1通、2通、3通……と、しまい込む招待状が増えるにつれ、いつの間にか専用の箱に入れるようになって。
 彼から届く招待状が通算で二百通に達しようかという頃には、出欠席の返事だけでも出そうかと迷うようになった。
 そしてこの二十年くらいは……行くか行くまいかで悩むようになった。
 我ながら、随分と穏やかになったもんだと思う。
 迷いを繰り返して数年後には、出席しようという意志を固められるまでになった。
 けれども、俺は彼の誕生日が近づくと体調が悪くなる。
 行こうと決めたはいいものの体調がふるわず、とても動ける状態じゃなかったり、人前に顔を出せる状態じゃなかったりして、結局行けないまま、更に数年が経ってしまった。
 ここ五~六年は、なんとかアメリカの家の近くまでは行ったのだが、怖じ気づいて直前で帰ってくるということを繰り返した。
 何年もかけて少しずつパーティー会場への最高接近距離を更新し、とうとう去年―――ついに俺は、彼の誕生日パーティーに顔を出すことに成功した。
 とは言え、彼を祝う輪の中にはどうしても入ることが出来ず、プレゼントだけを渡して帰ってきてしまったのだが、自分からすれば凄い快挙だった。
 パーティー会場にたどり着けたばかりか、なんとか彼を詰るような言葉も(多分)口にすることなくプレゼントを渡すことに成功したのだから。
 アメリカは、プレゼントを喜んでくれた。
「大事にするよ」
 と、言ってくれたのだ。
 嬉しかった。
 喜んでもらえたことが。
 彼を祝おうとする俺を、否定されなかったことが。
 そして何より、彼を祝おうと思える自分になれたことが、嬉しかったんだ。

 今年届いた招待状を見て、最初に湧き上がったのは、喜びで。
 複雑な思いを捨て去ることは難しかったが、近年まれに見るほどの前向きさで俺は招待状をいそいそと開けることが出来た。
 中には綺麗な装飾と模様の入った招待状と、短い手紙が入っていた。
 手紙をやや緊張しながら開いて読んでみた俺だったのだが、最初の一文で緊張は解けて吹き出してしまう。
『やぁ、イギリス。去年は良くもやってくれたね!』
 出だしがこれだ。
 去年渡したプレゼントにはちょっとした悪戯を仕込んでおいたので、それを言っているのだろう。
 そういえば、パーティーの次に会った時にも散々言われた。
 君は子供かい。嫌がらせにしたって古すぎるよ! あやうくテキサスが割れちゃうところだったじゃないか! などなど。
 拗ねた顔で文句を垂れているアメリカを想像して、頬が緩む。
 それだけで緊張はとれて、次の文を目で追った。
『だけど、今年はそうは行かないぞ! ちゃんとしたプレゼントを用意してくれよ。くだらない仕掛けをしようと思っても無駄さ。今年はプレゼントを俺が開けるまで君につきあってもらうんだからね! 覚悟しとくといいんだぞ! それじゃ、待ってるから。必ず来てくれよ!』
 アメリカらしい物言いに、口からは笑いが零れてた。
 まさかこんな穏やかで楽しい気持ちで、アメリカの誕生日の招待状を見る日が来るとは思わなかった。
 けれど今、恨む気持ちは湧いてこない。
 ほんの少しの寂しさはあるが、それは過去に向けるもので。
 今この時。彼に対する怒りや悲しさや寂しさは感じなかった。
 そうだな。今年は顔を出すだけじゃなく、パーティーにもちゃんと出席しよう。
『待ってるから』
 そう。彼は、待っててくれてるのだ。
 色々とあった。彼がこの手を振り払ったことは、未だに俺にとって深い傷となって残っている。
 けれど。
 彼は今ふたたび俺に手を差し出して、待ってくれている。
 関係は変わってしまったが、考えてみれば今の関係の方がずっと自然だ。
 宗主国と植民地。
 兄と弟。
 かつての俺は、その名づけやすく、分かりやすい《関係》に縋っていたのだと、今ならば分かる。
 アメリカを愛していいのだと。愛されていいのだと。
 無条件に二人を繋いでくれる《関係》に縋り、溺れてたのだ。
 兄弟だから、大丈夫。宗主国と植民地なのだから、大丈夫。
 彼を愛する理由。彼に愛される理由。
 そんなものがないと、怖くて愛することさえ出来なかった。
 勿論、名前だけでは無意味であることもよく分かっていた。
 現に本当の俺の兄弟と言える存在たちは俺を愛してもくれなければ、愛することさえ許されなかったから。
 本当の兄弟でさえそうなのに、関係性のない他人など、愛してもいいのかという不安が付きまとっていたんだ。
 あの時の小さなアメリカの純粋な愛情や好意を疑ったことはない。
 けれど、それを信じていいのだと。それを受け取る資格があるのだと何かに縋って安心したかった。
 それくらい、俺にとって愛する存在や愛される存在というのは馴染みがなく、無条件に信じられるものではなかったから。 
 今の俺とアメリカには、当時のような理由など、ない。
 愛する理由も愛される理由もゼロだ。それどころか、ひょっとしたらマイナスかもしれない。
 それが不安で、怖くて。けれど彼そのものを断ち切ることも出来なくて、ずっともがいていた。どう接していいのかも分からず、分かりやすい安心できる《形》の名残を求めて保護者ぶった態度をとり、彼を苛立たせたりもした。
 それはもはや癖になっていて弟だという意識の薄れた今でも直すことが出来ていないが……。
 まぁいくら関係や感情が変わろうとも過去が消えてなくなるわけではないのだから、完全に態度を改めることが難しくてもしょうがないだろう。
 それでも、今の俺に《弟》であるアメリカに固執する想いは薄れつつあった。
 緩やかすぎる変化は自分でも気づかなかったが、こうして節目のように彼の誕生日を目前にして己の内を垣間見ればさすがに気づけた。
 俺は今のアメリカとの関係を、それなりに気に入っているんだということに。
 弟では、当然ない。
 友達というのも、微妙に違う……らしい。(なにしろ友達になってやると言ったら、あいつは「やーなこった☆」と言い切りやがったのだ)
 国としての仕事上の付き合いだけかといえば、そうとも言えない。
 あいつはフラっと一人で俺の家に勝手に遊びに来たりするし、何かあれば人を自慢するためだけに呼び出したりもする。
 自分としてはそこそこ親しい友達くらいにはなれたんじゃないかと自惚れてみたりもするのだが、そんなことを言ったらあいつは容赦なく否定するだろう。
 俺達の今の関係は、なんと言い表すのか。
 その言葉を、俺は知らない。
 けれど今。
 俺はアメリカと親しくしたいと思っているし、アメリカも俺をそこそこ邪険にはするけど嫌ったりはしてない……と思う。互いに嫌味やからかいばかりが多いのはどうしようもないけれど。
 俺は俺で。イギリスとして。
 彼は彼で、アメリカとして。
 なんと名付けていいかは分からないけれど、確かにただの仕事上の付き合いだけはない何かがある。
 名前などなくても。
『待ってるから』
 アメリカがそう言ってくれるのなら。
 あの日に、どうしようもない拘りがあるのは本当で。一言ではとても表現しきれない想いを消し去ることは難しい。
 けれど、彼が祝福を待っていて。
 彼が生きてここいる今を疎めるかと言われれば、そんな問いの答えは当然にNoだ。
 腐れ縁の隣国とかならば別だけれど。
 少なくともアメリカが生きて、元気で過ごしていて、俺の訪れを待ってくれているのなら―――祝いたい。
 独立、という日を素直に祝うことはできなくても。
 誕生日という……彼が生まれ、生きて。そして出会えたことを。
 共に過ごせた時を。得てきた思い出を。
 そしてなにより、多くの争いを経ても、こうして祝いの席を共に出来る今を。
 祝いたかった。
 感謝すらしたかった。
 だから今年こそは。
 ちゃんと彼を心から祝おう。
 パーティーにも最初から出席して、プレゼントも持って。
 それでも手放しに祝うのは気恥ずかしいから、去年とは違ったダミーや仕掛けと、あとはほんの少しの皮肉を用意して。
 それでも最後には、言ってやるのだ。
『ハッピーバースデー』
 と。

 大丈夫。毎年俺は、少しずつだけれど前進してる。
 去年は会場に辿り着けただけでなく、プレゼントまで渡せたのだ。
 今年はきっと、最初から参加するくらいわけないに決まってる。
 
 心に決めた俺は、生まれて初めてと言っていいほど、アメリカの誕生日を楽しみに思っていた。
 浮き立つような気持ちでプレゼントを選んで。
 それから。それ以上にワクワクして、プレゼントにしかける罠を考えた。
 
 今年の7月4日は、今までと違う7月4日になる。
 これをきっかけに、アメリカとの関係だってもう少し良くなるかもしれない。

 そんな確信を、俺は抱いていた―――。
 




 甘かった。
 ほんっとうに甘かった。
 俺は、俺のしつこさを甘く見ていたと言わざるを得ない。

 生まれて初めてアメリカの誕生日を楽しい気分で待てる。
 そう思ってたというのに、アメリカの誕生日パーティーに、今年こそは最初から出席すると決めたその翌日、日付にして6月27日。きっかり一週間前から、俺は体調を崩した。
 二百三十年も続いた習性というのは、そう簡単に突然治ってくれるものではないらしい。
 考えてみれば、アメリカの誕生日にまつわる体調不良なんて、最初は一月くらい続いてたんだ。
 一週間という短さになるまでだって、百年以上かかってる。
 それがたった一年で、ゼロになると思う方が無理ってことか?
 この体調不良は、過去に拘る俺の精神的なものが原因なんだろうと思っていたんだが、違うんだろうか。
 最初はそうだったとしても、もはや習慣のように身に付いてしまって、気力だけじゃどうにもならないものになったんだろうか。
 それとも―――俺は。
 俺は本当は、まだ、アメリカを許せていないんだろうか?
 まだ。まだ俺は、あいつの誕生日を祝えないんだろうか?

 テーブルの上におかれた紙袋に目を向ける。
 飾り気のない、シックな光沢ある黒の紙袋の中には、アメリカへの誕生日プレゼントが入っている。
 一月くらい前から何がいいか考え続けて。
 出かける度に、何かいいものはないかと探し続けて。
 幾つか候補は出来たものの、もっといいものがあるんじゃないか、本当にこれでいいのか、その中でもどれが一番いいか。
 最後の最後。買うぞ! と決めてからも、四日ほどかかってしまったくらい、真剣に選んだものだ。
 正直、人への贈り物でここまで悩んだことはない。
 仕事上の付き合いなら品物の選定は部下に一任しているし、私的な付き合いで贈り物を渡すような相手は殆どいない。
 長い時を生きる上で付き合った人間の女性に贈り物をしたことは幾度となくあるが、彼女らの好みは大概が分かりやすいものであったりしたし、それでなくとも女性に送るものならば、基本さえ抑えておけばそう外すことはない。
 だが、アメリカに渡すとなると、そうもいかない。
 あまり子供っぽいものではまた「君はいつまで俺を弟扱いするんだい」と言って拗ねられかねないし。
 かといって、あいつの好みに沿わないようなものでは「君の趣味は本当に古くさいな! 黴が生えるよ!」と言われそうだ。もしくは、趣味の押しつけになりそうで怖い。
 ならばあいつの好みそのままのものを……というのも、なんだか癪だ。それに、あいつの趣味の系統だと俺には何が良いのかさっぱり理解が出来ないので、どれがいいかの判別もつかない。似合ってることは分かるんだが。
 適当なものでは俺のプライドが許さないし、センスにケチをつけられたくもない。
 渡すからには文句を言われたくないし、それになにより……喜んでもらいたい。
 あいつのパーティーは盛大に行われるから、プレゼントもたくさん貰うんだろう。
 その中に埋もれないくらい、特別に喜んで欲しいと思うのは―――我が侭というものだろうか。
 こんなんだから、あいつに鬱陶しく思われるんだろうなぁ、というのは分かってる。
 けど、しょうがないじゃないか。
 思っちまうものは、どうしようもない。
 喜んでほしい。
 一番に。
 そんなの無理だと分かってても。
 ……何しろ、買ってきたものがものだ。
 あれだけ考えに考えて、あいつが喜びそうなもの、あいつが喜びそうなもの……と悩みに悩んだというのに。
 分かってる。間違いなくあいつの趣味からは外れてる。それと、恐らく俺の趣味が丸出しだ。
 きっとこんなのあいつに渡したら、「また君の堅苦しい趣味の押しつけかい」とか言われるに違いない。
 必死になって考えてたのに、一度目についてしまったらそれ以外考えられなくて、あいつの趣味じゃないんだろうとは思うけど、やっぱり似合うと思ったらつけてみて欲しくて何度も何度もやめようと、違うのにしようと思って実際違うのも買ってみたけど諦められずに買ってきてしまったそれ。
 喜んでは貰えないんだろう。
 だけど、喜んで欲しいんだ。
 そんなのは我が侭だと知ってるけれど。
 喜んで欲しいと思う気持ちだけは、嘘じゃない。

「なのに、なんでだ……?」
 祝いたいと、喜んで欲しいと思ってるのに、体がついていかない。
 眠れなくなってから4日目。
 睡眠を充分にとれてない頭は重く、体も怠い。
 俺は《国》だからそうそう寝ないくらいじゃ死なないが、それでも人間に良く似た見た目のせいか、キツイものはキツイ。
 眠れない上に、食事もろくにとれない。
 ここ数日、口にしたものと言えば紅茶と、スポーツドリンクと、栄養剤。あとは少しのオートミールくらいだ。
 菓子の類も喉を通っていかなかった。
 水気の多い果物なら……と思ったが、それでも暫くすれば吐いてしまう。
 この時期に必ず訪れる、お決まりの症状と言えば症状だ。慣れている。
 慣れているが、今年はきっとこんなことにはならないだろうと思っていただけに、ショックが大きい。
 くらりと眩暈に襲われて、掌で顔を覆う。
 ソファに座っていても、このざまだ。
 酷いときはベッドから起きあがれもしなかったこともあるとは言え、体調不良が直接の原因ではない不快さが付きまとう。
 目を閉じれば、浮かんでくるのは今朝方に見た夢の欠片。
 雨音。
 銃声。
 軍靴の音。
 剣戟の音。
 彼の、声。

『たった今俺は、君から独立する』

 そして、胸の痛み。

 胸を痛めているのは、夢の中の自分だ。
 今の自分ではない。
 痛みは遠く、雨に霞んだ向こう側にあって、この身を苛むものではない。
 なかった。
 なのに、夢を思い出すと、今度はその痛みが直接この身を苛む。

 こんな夢に惑わされそうになる自分が、嫌だ。
 夢という形で蘇る過去に、胸を痛めそうになる自分が、痛い。
 容易に過去へと引きずり戻されそうになる自分が、厭わしい。

『戻りたい』
 小さいアメリカと過ごした、唯一と言っていいほど幸せに満ちた時間に。
 それはこの時期に己が繰り返し続けてきた望み。
 あの夢は、そこへ自分を連れていってしまう。
 
 眩暈が酷い。 
 目を閉じていてもぐるぐると頭が回る。
 気持ちが悪い。
 胃には殆ど何も入っていないというのに、吐きそうだ。
 目を開けていることは辛かったが、こうして目を閉じていると悪夢に捕らわれそうになる。
 何度となく脳裏を掠めていく悪夢の残滓から逃れるようにして、重い腕を動かし、目をこじ開ける。
「………っ」
 強くもない筈の照明に目を焼かれ、目の前に手を翳して視界を守った。
 眩暈はやまず、視界も回る。
 起きあがるのは無理そうで、あてずっぽうの手探りだけでテーブルの上を探した。
 かさり、と手に触れた感触に安堵を得て、それを引き寄せる。
 眩暈で安定しない上に、吐き気のせいか涙を滲ませた目ではろくに見ることもできなかったけれど、触れればそれが何か分かった。
 アメリカの誕生日パーティーの、招待状だ。
 中には彼からの短い手紙も入っている。
 それを胸にあて、深呼吸を繰り返す。

 何度となく願った筈のことば。
『戻りたい』
 だけれども今は、逆のことを願う。
『戻りたくない』
 戻りたいと願う自分に、戻りたくない。
 ぐしゃぐしゃにならないように、慎重に。
 けれどしっかりと、招待状を胸に抱く。
『待ってるから』
 その言葉が、何かの呪文のように思えた。
 大丈夫だ。
 必ず行く。
 招待客はそれこそたくさん居て。別に俺だけを待ってるわけじゃないなんてことは、分かってる。
 だけど。
 お前が待っててくれるというのなら、行くから。
 絶対に。
 大丈夫だ。
 行きたいと、俺は思ってる。
 お前の存在を祝いたくないと、思いたくない。
 祝いたい。
 お前を祝いたいんだ。
 おめでとう、と言ってやりたい。
 
 とんでもなく空気が読めなくてバカでアホでメタボで後先考えなくて、誰にでも無茶なことばかりいって、自分大好きで自分が一番で、俺にばっかり一言多くて酷いことばっか言って。周りが見えてなくて、荒唐無稽なことばかり言って。
 だけど。
 そんなお前に小言を言ったり説教したり、お前の意見を否定したり、文句ばっかり言うお前の為にアイスを用意しておいたり、バカなこと言い合ったり喧嘩したり、皮肉を言い合ったり、たまには一緒に酒を飲んだり。
 小さいお前と過ごしていた時とは違うそんな日々が、今の俺には大切で。
 なくしたくないもので。
 過去は痛くて悲しくて辛いこともあったけれど。
 いまの大切なものに、それが必要だったというのなら、耐えられるから。
 戻りたくない。
 還りたくない。
 お前を恨みたくない。
 いまのお前を、なくしたくない。
 
 招待状を胸に抱いて、気を抜けば甦りくる夢を遠ざけようと、俺は脳裏に彼を思い浮かべる。
 小さな姿でもなく、悪夢の中の姿でもなく。
 今の。
 空気が読めなくてバカでメタボでどうしようもない彼を。
 絶対にお前は昔の方が頭が良かったと思うけれども、それでも今の彼を。
「アメリカ」
 お前が、アメリカだ。
 どれだけ空気読めなくても。バカなことばっか言ってるほんとのバカでも。
 ハンバーガーばっか食ってメタボになっても。
 きったねー食べ方して周りに食べかす散らかしてたって。
「アメリカ」
 お前が、アメリカだ。
 底抜けに明るい、何も考えてなさそうで、「読める空気? それって食べ物かい?」とか素で聞いてくるアホ面を思い浮かべれば、ほんの少しだけ気分が軽くなる。

 眩暈は去らない。
 多分、今夜も眠れないだろう。
 食べ物だって、食えないに違いない。
 それでも。
 大丈夫だ。
 俺は、大丈夫だ。
 行ける。必ず行く。
 お前を祝いに行くから。
 アメリカのアホ面を思い浮かべれば、きっと耐えられる。
 過去から走り逃げ切ることはまだ難しくても。
 少しずつでも前進していける。

 招待状を抱きしめながらそう思えば、目から涙がこぼれていたことに気づく。
 吐き気のせいだけではないだろうそれに苦笑が浮かぶが、まぁいい。
 
 あと少し。
 3日後には、誕生日パーティーだ。
「アメリカ」
 お前に、必ず会いに行く。
 そして心からの祝福を、お前に伝えに行くから。

 ああ、どうしてかな。
 ただ祝いたいだけの筈だったのに。
 祝えるようになった自分が嬉しかっただけの筈なのに。
「アメリカ」
 今、どうしようもなく、お前に会いたい―――。


 あと、三日。




 空港には、現地時間の3日夜についた。
 あらかじめとっておいたホテルで休んで、翌日の昼頃に会場へと向かう。
 飛行機の中でもホテルでも相変わらず眠れなかったが、事前に点滴を打ってもらったこともあり、多少は体の重さを感じずに済んだ。
「カークランド卿、本当に行かれるのですか?」
「無理はなさらない方が……」
 俺の体調が悪いことを知っている部下達はどうしても心配らしく、ロンドンを出るときからもはや何度目かわからぬ制止の意味をこめて問いかけてくるのに、心配ないと笑って告げる。
「ああ。今日は会議でもないし、公式の行事でもない気楽なものだ。疲れたら早めに帰るし、心配はいらないさ」
 今日のパーティーは、あくまでもアメリカが個人的(なにしろ国そのものなので、個人と言ってしまっていいかは分からないが)に開くものだ。
 正式な政府が関わるようなものは、別途上司やその命をうけた者達が行っていることだろう。
 俺が向かっているのは、あくまでもアメリカ主催の《国》が主な招待客であるパーティー。
 派手好きだが、堅苦しいものを好まない彼らしく、ドレスコードなども一切ないらしい。
 そう言われると逆に服に困ってしまう俺は、結局フォーマルすぎない……けれどいつも仕事で着ているものよりは明るめのスーツを着て向かっているのだが。
 昨年の様子を見るに、元々が知人を集めたホームパーティーを派手にしたような感じらしいから、本格的に具合が悪くなって帰ることになっても、さほど面倒はおきないだろうと思われた。
 もっとも……そんな事態にはしたくないし、するつもりもない。
 目眩がなんだ。吐き気がなんだ。
 最悪に国の状態が悪く、どうしようもなく辛い時だって弱みを見せられない相手との仕事ならばそれら全てを押し隠すことだってしてきた。
 それに、体調とは裏腹に気持ちだけは逸っているのだから。

 何度となく心配してくる部下をその度に宥めながら、彼らの運転する車に送られて、パーティー会場へとたどり着く。
 場所はアメリカが所有する邸宅の中でも本宅にあたる大きな屋敷だ。
 車を降りれば、係の者がすぐさまドアを開けて出迎えてくれる。
 招待状を見せると、恭しく受け取ってから案内をしてくれた。
 なんだか、アメリカの家じゃないみたいで不思議な感じがする。
 派手好きな割に堅苦しいことを嫌う彼は、普段は気楽な一人暮らしを好んでいるらしく、こうした邸宅よりも便利な都市部にあるアパートを住居にしていることが多い。
 ハウスキーパーは雇っているらしいが、寄った時に会ったことはないので、アメリカの家を訪問して別の誰かに迎え入れられるということは、ひょっとしたら初めてかもしれなかった。
 案内されて通されたのは、車を止めた側とは建物を挟んで反対側。芝生が敷き詰められた庭だった。
 俺の家の庭と違い植物をメインにしたものではなく、広々とした芝が続く広場のような庭だ。
 樹木や花木などはそのスペースを邪魔しない程度に、どちらかというと敷地やスペースの区切りとして置かれているようだ。
 今はパーティーの為に長く大きな机がいくつも置かれ、その上にはたくさんの色とりどりの料理が並んでいる。誇張でなく、文字通り《色とりどり》なのが少々困りものだが。
 ざっと見渡せば、パーティー会場には既に何組かの人が来ているようだった。
 開始ちょうどに来るつもりだったのだが、ホテルを出るまでに何度となく部下に止められたり、それを説得したりしてるうちに、時間を食ってしまっていたらしい。
 見てみると、知っているところでフィンランド、スウェーデン、日本、スイス、ドイツ、プロイセンの姿があり、それと半分以上眠っているとしか思えない状態のイタリア(ヴェネチアーノの方)が机につっぷしているのが見える。
 来て良いと指定された時間からさほど経っていないので、今居るのは時間に正確な面々と、それに連れられて来た者だけなのだろう。
 女性との待ち合わせには遅れたことがないと豪語するくせに、普段は時間にルーズな憎たらしい隣国の姿も今はない。
 居たら居たで、俺がこの場に居ることを絶対にからかってくるだろうから、少しばかりホッとする。
 だが、見回してみても、アメリカの姿は見えなかった。
 今日のホストで主役でもある彼は、何かと忙しいのだろう。
 残念に思ったのは確かだが、焦ることもないと思い直して見知った顔がある方へと歩いていく。
 すると、こちらが声をかける前に日本が気づいてくれたらしく、柔らかな微笑と共に一礼をしてきた。
「イギリスさん、こんにちは。……ここでお会いできて、嬉しく思います」
 同じく招かれた者同士にしては丁寧すぎる様子に戸惑いながらも、日本に会えたことは素直に嬉しかったのでこちらからも手を挙げてそれに応えた。
「ああ。久しぶりだな、日本。俺もここでお前に会えて嬉しいが……」
 物言いの妙にどう返したものかと思っていると、日本が口元に手をあててくすくすと笑う。
「アメリカさんが、いつも以上に浮かれていらっしゃるわけだと、納得したんですよ」
「アメリカが?」
 日本の言葉は、繋がっているようで繋がっていない気がするのだが、日本からすれば繋がっているのだろうか。
 アメリカが誕生日に浮かれるのはいつものことだし、それと俺と日本が会えて嬉しいこととの関連性が分からない。
 いつもならば添えられるフォローが入らず、日本の発言の意図は分からないままだ。
「どういうことだ?」
 そう重要なことでもないとは思うのだが、なんとなく落ち着かなくて、意味を問う。
 すると日本は心から嬉しそうな笑みを浮かべて言った。
「イギリスさんと、アメリカさんの誕生日パーティーでお会いするのは初めてでしょう? それが嬉しいのです。私も……それからきっと、私以上にアメリカさんも」
 知らず、顔が熱くなる。
 俺とアメリカは友好国で。その誕生日パーティーに俺が頑なに出席しない理由など、そりゃあ知れ渡っていることだろう。
 改めて考えると、頑なにアメリカの誕生日パーティーに出ないってことは、《俺は過去に拘っている》と世界中に吹聴して回ってたようなものだったらしい。
 そう考えると赤面する思いだが、日本の発言はそれを俺に気づかせてくれただけではなくて。
 それ以上に、別の意味で顔が熱くなるものも含んでいた。
『嬉しいのです』
『私も……それからきっと、私以上にアメリカさんも』
 アメリカは、嬉しいと思ってくれるのだろうか。
 手紙には『待ってる』と書いてあったのだから、来てほしくないわけではないと思うのだが……。
 いざこうして会場に来てみると、急に不安になってくるのも事実だった。
 アメリカの姿が、見えないとなれば尚更。
「そ、そんなことないだろっ。あいつのことだからどうせ、『君だけ呼ばないのは可哀想だと思ったから誘ってあげただけなんだぞ!』とか思ってるに決まってるさ!」
 つい喜んでしまいそうになる自分を抑えようと咄嗟に言ってみた言葉だったが、あまりにも有り得そうで凹みそうになる。
 自分で言ってて傷ついていては世話ないが、俺の来訪をアメリカが喜ぶより何倍も真実味があるから困る。
 考えてみれば、アメリカに来訪やら何やらを喜ばれたことなど、独立されて以後は皆無と言ってもいいんじゃなかろうか?
「いいえ。それこそ、そんなことありません」
 自分の考えで勝手にへこんでいた俺の様子に、日本はまたくすくすと笑って緩く首を傾げる。
 その様子と表情が、聞き分けのない子供を暖かく見守ってるかのようで妙な気分だ。いたたまれない。
「アメリカさんは毎年……イギリスさんがお越しになるのを待っておいででしたよ。ずっと、ずっと。パーティーの終了時刻がきても、入り口の方を何度も見ながら、皆さんを引き留めて。日付が変わるまで……」
「え……」
 日本の言葉に、心臓を鷲掴みされたような気になる。
 そんなの別に俺を待っていたとは限らない。そうだよ、あいつは大騒ぎが大好きだから、単にパーティーが終わってしまうのが、自分が最大の主役になれる日が終わるのが寂しかっただけで。そこに俺はきっと関係ない。
 そう何度も自分に言い聞かせるのに、顔が緩んでいくのはどうしようもなかった。
「そんなの……」
 嘘だと。日本の勘違いだと。
 言い切ってしまえばいいのに、言い切れない。
 それは信じてるとはまた別で。
 そうであったらいい、という俺の願望でしかないのに。
 あるわけない、あるわけない。
 何度も言い聞かせるけど、どうしても上手くいかない。
 信じたくなってしまう。
「あ。噂をすれば、ですね。イギリスさん、アメリカさんがいらっしゃいましたよ」
「……!!」
 そんなことを考えていた最中に聞こえた日本の言葉に、ぎくりとして身体が固まる。
 抑え込んでいた、常につきまとう目眩や吐き気など一瞬で吹っ飛んだ。
 心臓が跳ねて、それどころじゃなくなったのだ。
 さっきはアメリカの姿が見えないことを寂しく思ったのに、いざ当人が来たとなると、どういった顔をしてどう挨拶を交わせばいいのかも分からなくなる。
 なにしろ、こうしてアメリカの誕生日パーティーに出るのは初めてのことだ。
 いや、でも去年はさりげなく出来た筈だ。落ち着け、落ち着くんだ俺。
「イギリス!?」
 こちらを見つけたのか、驚いたようなアメリカの声が背後から聞こえる。
 それに軽くパニックになっている俺に、しかし日本は柔和な笑みはそのままに強引に背を押して俺を振り返らせた。
「さ、イギリスさん」
 らしくない強引さに日本を恨めしげに見るが、変わらぬ聞き分けない子供を宥めるような目を見るに、どうやら彼は分かっていてやっているらしい。
「に、日本……」
「アメリカさんが、お待ちですよ」
 日本の目は、しょうがないですねと窘めるものであったが、そこに込められた色は優しかった。
 労るようであり、喜んでいるようでもある。
「今日は、良い日ですね」
 優しく響く声音に、不意に泣きそうになった。
 心優しい友人は、恐らくずっと案じてくれていたのだ。
 この日を未だに気にして、祝いにこれない俺を。そして、いつもなら人の都合など全く考えないアメリカが俺に遠慮する唯一の日であるこの日を。
「ああ……そうだな」
 そうだな。きっと今日は、良い日だ。
 日本に背を押されるまま、今度こそアメリカの方へと向き直る。
 そこには、ここ数日ずっと会いたいと思ってた姿があった。




「イギリス……来てくれたんだね」
「お、おう……」
 いつもならパーティーともなれば止めようもないほどはしゃいで喜んで、周りの迷惑なんか考えずに突っ走って騒ぐアメリカが、らしくなく静かな様子で立っていた。
 来訪を喜ぶ言葉に安堵して恐る恐るに顔を見れば、そこには見慣れない優しい笑みが浮かんでいる。
 もっと……こう。喜んでくれるにしろ、
『ようやく来たね、イギリス! まったく君は本当に頑固なんだぞ。それも今日でようやく観念したってことかな!』
 とか言って、いつものテンションで勝利宣言のように言われるんじゃないかと思っていたのが、予想と違って戸惑った。しかも真っ直ぐに見つめられているのが分かるから、余計に。
 アメリカの浮かべる笑みを何故だか見ていられなくて咄嗟に逸らしてチラと周囲の様子を窺えば、日本がいつの間にか俺たちから離れて、そして皆を少し離れた方へと誘っていた。
 他の連中もこちらに一瞥をくれると、納得したかのように少し離れたテーブルへと自然と移動していくのが見えて、気を利かせてくれたのは分かるんだが、なんだか居たたまれない。
「イギリス?」
「あ、いや。なんでもねぇ」
 黙ったままの俺を不審に思ったのか、いつの間にか俺の間近まで来てたらしいアメリカに名を呼ばれて我に返る。
 まだ頭が重いせいばかりでなく、アメリカの態度が違い過ぎてどうにも調子がでない。
 嫌なわけではないのだ。歓迎されてるらしいというだけで嬉しい。
 嬉しいのだが、いつものあっけらかんとした笑みでなく、柔らかく嬉しさを滲ませるような笑みなんて見慣れてなさすぎて、落ち着かない。
 たかがアメリカの笑みひとつで、なんで俺はこんなにそわそわしなきゃいけないんだ。くそ、理不尽だ。
 胸中で悪態をつけば少しだけいつもの調子を取り戻せて、隣に立つアメリカを軽く睨みつけながら言ってやる。
「言っとくが、死ぬほど暇だっただけだからな! お前を祝う為なんかじゃなくて俺の暇つぶしの為なんだからなっ」
 我ながら説得力に欠けるとは思うが、素直に祝いに来たとは言い辛い。
 いや、祝いに来たんだが。こんな早い内に素直にそんなこと言ってしまっては、この後どんな顔をしてパーティーを過ごせばいいか分からないじゃないか。
 アメリカのことだから、またからかうようなことを言ってくるんだろう。そうすればきっと、いつも通りに軽口を叩きながら過ごせる。
 素直に祝ってやりたい気持ちはあるが、それは帰り際にでも言えばいい。
 それなら恥ずかしくて死にそうになっても耐えられる。
 自分なりに予定というか計画をたててのことだったのだが。
 今日のアメリカは、とことん俺の予想を裏切ってくれる。
「そっか。そうだよね。うん、でも君が来てくれただけで、嬉しいんだぞ!」
「へ……?」
 素直に、喜ばれてしまった。
 からかうような言葉ひとつなく。
 なんだそれ。なんだそれ。
 頭が混乱していく。
 こいつほんとにアメリカか!?
 いや、本気で疑うわけじゃないが、俺のああいった物言いに素直に返してくるアメリカなんて有り得ない。
 ああ、くそ。ほんとになんなんだ。
 なんで俺が照れなきゃいけないんだ。顔が勝手に赤くなってくのが分かる。
 こんなの、らしくない。
 俺も、アメリカも。らしくない。
 らしくないけど、嫌ではなかった。むしろ、嬉しいと思ってしまって困る。すごく困る。
『今日は、良い日ですね』
 日本の言葉が脳裏をかすめていくが……今は、頷いていいのか否定していいのか分からなかった。
 だけどきっと、良い日なんだろう。
 良い日に、しなければいけない。
 今年こそ、ちゃんと。
 そうだ。せっかくアメリカが素直に喜んでくれてるのだから、ここは俺も素直になってアメリカを祝わなければ。
 思い、口を開いた筈なのだが、俺の口から出てきたのは、何故か
「そ、そうかよ。まぁ、わざわざ俺が祝いに来てやったんだから、せいぜいもてなせよな!」
 ……こんな言葉だった。
 違うだろ俺!
 今日はアメリカの誕生日なんだから、アメリカは祝われる側だし、そうでなくてもこの言い方はない。
 普段ならともかく、素直に来訪を喜んでくれた相手にこれでは、いくら機嫌が良さそうなアメリカだって気分を害するだろう。
 一体どんな皮肉が返ってくるのだろうと冷や冷やしていると、アメリカの手に背中を軽くポンと叩かれた。
「勿論さ! さぁ、君にも喜んで貰えるように色々用意してるから、その……楽しんでいってくれよ!」
 会場の中程へと促されているのだと分かり、促されるまま歩を進めるが、俺はちゃんと歩けているのだろうか。
 ずっと抱えてた目眩とは違うもので、頭ががくらくらする。
 真っ直ぐ歩けている自信がない。
 背を叩かれて、反射的に見上げたアメリカの顔。
 あんな偉そうなことを言ったのに、アメリカは嬉しくて仕方ないという顔をしていた。
 なんて顔をしてるんだ。
 なんでそんな顔してるんだ。
 ただ単に、誕生日だから。パーティーが楽しくて仕方ないだけだ。
 そう、思えないこともなかった。
 だけど。
『楽しんでいってくれよ!』
 一瞬の躊躇いの後に言われた言葉。
 普通に言われたなら、何も思わなかっただろう。
 けれどアメリカは一瞬だけだけれど、その言葉を口に出すことを躊躇った。
 俺はアメリカの誕生日パーティーを素直に楽しめない。
 そういった可能性が高いと思っていない限り、躊躇う理由はないだろう。
 空気なんか普段まったく読まないくせに。
 読む気なんか、欠片もないくせに。
 こういう時だけ読むなんて、こいつはズルイ。

 二百と三十年と少し。
 毎年毎年、欠かさず届けられた招待状を想う。
 散々に詰って、目の前で破り捨てたこともある。
 それでも絶えることなく、送られ続けた招待状。
 どんな嫌がらせだと、思い続けていたもの。
 どうしても素直に受け取ることの出来なかったもの。

『イギリス』
『君は怒っているかもしれないけど』
『俺は、後悔はしてない』
『君を傷つけたけれど』
『自分勝手だと君は怒るだろうけれど』
『イギリス』
『俺は』
『君に』
『祝ってほしいんだ』
 添えられた短い手紙の数々に綴られた言葉たちが、断片的に蘇った。

 嫌がらせだと決めつけていた。
 なんて傲慢なと、吐き気さえ覚えた。
 けれど。
 ずっとずっと。
 ひたすらに届けられたそれは。

『祝ってほしいんだ』

 彼の、心だったんだ。

 読まずに捨てたもの、燃やしたものを、今更ながらに惜しく思う。
 なんて酷く冷たいことをしてきてしまったんだろうという後悔が胸を襲った。
 涙が滲みそうになるのを、ぐっと堪える。
 泣けない。泣くわけにはいかない。
 そんな資格はきっとないし、何より。
 いま必要なのは後悔ではなく、彼を祝う心だ。
 届けられた、請われ続けた想いに応えようと思うのなら、それは涙ではなく笑顔でなければならない。
 
 ごめん。
 ごめんな、アメリカ。
 ずっと意地を張っていてごめん。
 ずっとお前を誤解していてごめん。
 ずっと寂しい思いをさせていてごめん。
 過去を振り返らないお前の。
 未来だけを見て突き進むのが似合うお前の。
 その脚を年に一度だけでも、ほんの少し止めてしまうものが俺だったのだとしたら。
 ああ、なんてこった。
 本当に俺は最悪だ。
 そんな存在は許せないと思いながらも、何故か。
 どこかで。
 嬉しいと、そう思ってしまったんだ―――。






 パーティーが本格的に始まったのは、それから1時間後くらいのことだった。
 何しろ昼から騒ぎまくるという、アメリカらしいこのパーティー。
 それほど律儀でない慣れた者達は、思い思いの時間に来ることが定番になっているらしい。
 何しろ参加自体が初めてなので、仕事で連れ出される普通のパーティーとの違いに少しばかり戸惑うが、考えてみればアメリカ主催のクリスマスパーティーも似たようなものだったことを思い出す。

 パーティー自体は、楽しいものだと思う。
 アメリカの誕生日パーティーだけに、とにかく派手で騒がしいのが難点だが、今日は不思議とそれに嫌悪感だとかは沸いてこなかった。
 それでも、素直に褒める気にはなれなくて、あっちの方がいいだの品がないだのと文句は散々につけてやったけれど、俺もアメリカも機嫌は良くて、笑い合いながらのそれらは、いつものような険悪な雰囲気を作ることなく穏やかに楽しく過ぎていった。
 途中からふらりと現れたフランスに見つかった時には、また喧嘩になりかけたけれど。
「よぉ、ぼっちゃん。ついに観念したか」
「うるせぇ黙れ髭。なんか文句あっか」
「べーつにぃ~」
 予想していたことだが、案の定にフランスはによによと思わせぶりな笑みを浮かべて視線を投げてくる。
「成長したねぇ」
「黙れつってんだろ腐れワイン」
「いーじゃないの。おにいさん、これでも褒めてんのよ」
「いらねぇよ」
 言いたいことは分かってる。分かってるから、わざわざ言うなと思う。
 とは言え、それくらいなら流せたのだ。
 体調と反比例するように今日の俺は機嫌が良かったし。
 だが……
「照れちゃってまぁ、かわいいねー」
 こうこられては、手が出るのもやむなしだろう。
 せっかく良い気分だったってのに、見ろこの鳥肌!
「その口、永久に開かねえようにピアノ線で縫いつけてやろうか?」
 ギロリと睨んで拳を握りしめる。
 せっかくのアメリカの誕生日パーティーに揉め事を起こしたくはないが、フランスの口を閉じさせる為だ。
 今後の時間を気持ちよく過ごす為にも、今の内に掃除はしておくべきだろう。
 そう思ってフランスに喧嘩をふっかけようとしたのだが―――
「イギリス!」
 振り上げかけた腕ごと、アメリカに後ろから拘束されて、止められた。
「アメリカ!?」
 同時、驚いただけではない勢いで心臓が跳ねる。
 止められたのは分かる。分かるけど、俺を止めてるのはアメリカの腕で。
 つまり後ろから、抱きしめられてるみたいな状態になっている。
 ちょっと待て、なんだこれ。
 止めるなら腕だけ掴んで止めるとか他にも色々あるだろアメリカ!
 なんでよりによってこんな止め方するんだ!?
 体格差のせいか、背はそれほど違わないはずなのに完全に腕の中に抱き込まれている。
 その状態に動揺して、更に何で俺はこんなに動揺してるんだと動揺して、わけもわからず恥ずかしい気になって混乱する。
 なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ。
「今日は俺の誕生日なんだから、揉め事はよしてくれよ! まったくおっさんのクセに血の気が多くて困るな君達は!」
 アメリカの言うことは尤もで、だけどそれ以上に今のこの状態から逃れたいが為に良く考えもせずにコクコクと素直に頷いた。必要以上に何度も。
「わ、わかった! 悪かった。しない。しないから!」
 だから頼むから離してくれ!
 自分の状態がわからないながらも、とにかくこの状況に耐えられなくて必死にアメリカの腕を外そうとするが、存外に強い力で拘束されているようで叶わない。
 くそ、この馬鹿力! メタボ!
 胸中で罵ってもアメリカの腕は緩まない。
 どうしたものかと視線を忙しなく彷徨わせていると、さっき以上にニヨニヨした笑みを浮かべたフランスと目があった。
「な、なんだよ……っ」
 動揺しまくっている様を見られてたのかと思うと屈辱で、それを誤魔化す為に再度睨み付けてやると、ヤツはわざとらしく肩を竦めてみせる。
「いいやー? 今日は随分仲がいいじゃないの、お二人さん」
「!!?」
 それほど腹立つ言葉ではなかった筈だ。
 反応する方がどうかしてる。
 そう頭の隅で理性は言っていたが、一瞬にしてカッと頭に血が上って、冷静な判断はどこか遠くへ飛んでいった。
 これがせめて普通の状態の時なら、冷静に「何言ってんだばーか。頭沸いたか?」とでも返せたかもしれないが、アメリカに抱き込まれたみたいな状況で言われてしまうと、とても冷静ではいられない。
 こんなの、ただ単に誕生日パーティーに暴れられるのが面倒で、口で言っても俺とフランスの喧嘩が止まるわけないと知ってて、やや強引な手段に出ただけに過ぎない。
 頭では分かってるのだが、何故だがさっきから俺はおかしい。
 この状況に羞恥と、ああくそ認めたくないが、何故だがほんの少しだけ嬉しいような気がしているのだ。
 だから冷静でいられない。
 こんなことで照れてどうする。ただ場を治める為の実力行使に顔を赤くしてるなんて、変に思われて当然だ。
 だが、考えれば考えるほど泥沼になりそうで自分を誤魔化す為にフランスにもう一度怒鳴りつけてやろうとしたところで、ぎゅっとアメリカの腕に力が込められて。
「何言い出すんだこのクソひ……!?」
「そうなんだよ。ははは、羨ましいだろうフランス!」
 言いかけた俺の言葉を遮るように、アメリカがフランスへと朗らかに言ってのけた。
 うわぁ。何言い出すんだこのバカメリカ!?
 仲良いとか言われて肯定した!?
 肯定したのかアメリカが!
 いつもなら絶対に否定する場面だってのに。
 あまりの事態に、脳がついていかない。
「あー、別に羨ましくないから、お前らとっとと何処かいってくれば……?」
 アメリカの反応が予想外だったのか、呆れたのか。フランスはもう俺達をからかうのは止めにしたらしく、ひらりと手を振って離れていった。
 これでもう今以上に事態が悪化することはないだろうと少しばかり安堵するが、まだまだ状況は油断ならない。
 なにしろフランスが立ち去ってからも、なんでかアメリカの腕が俺から離れてないのだから。
 勘弁して欲しい。
 今の俺は寝不足と体力低下のせいで、思考がまともに働いてないんだ。
 こんな風に頭がぐちゃぐちゃなのも、アメリカに対しての反応がおかしいのも、全部体調不良のせいに違いない。
 これでまだ、アメリカがいつも通りなら良かったのに。
 なんでか今日のアメリカは様子が違う。誕生日で浮かれているのもあるんだろうし、全体的に機嫌が良いのもあるんだろうが……なんというか、心臓に悪い。
 どうしたものかと考えあぐねていると、アメリカがようやく俺を抱き込んでいた腕を解いてフランスが去っていったのとは違う方向を指さして言った。
「さぁイギリス! フランスもいなくなったし向こうへ行こうよ! マジックショーをやってるんだ。君、そういうの好きだろう? 魔術だとか言ってるけど」
「な……っ。アレは本当に魔術であって、マジックとは全然違うんだからな! ……って」
 誘ってくれるのは嬉しいが、その内容は聞き捨てならない。
 反射的に反論をした俺だったのだが、またそこで言葉を止めるはめになる。
「あ、アメリカ……?」
「うん?」
 戸惑いながらも口にした名に振り返るアメリカの表情は、楽しげな笑み。
 今まで殆ど見ることの出来なかった素直な表情が、どうしたことか今日は大安売りだ。
 誕生日万歳、と頭のどこか遠くで思いながら、言い掛けた疑問を喉の奥にしまいこむ。
「い、いや。なんでもない」
「変なイギリスだな。さ、行こうよ!」
 不審を口にしてもアメリカの表情が曇ることはなく、楽しげな様子のままだ。
 抱き込まれてた腕が解かれたと思ったら、行く先を促すように肩に回された腕が気になって仕方ないのだが、この様子からして、きっと他意はないのだ。ただ浮かれているだけで。
 なら、細かいことを言うのはやめておこう。
 気にしないというのは難しかったが、上機嫌なアメリカに水を差すのも憚られたので、それについては言及せず、マジックショーが行われているというエリアに向けて二人連れだって歩いていった。






 その後も、アメリカに連れられてパーティーを楽しんだ。
 アメリカを祝おうと決めて。
 けれど例年通り訪れる症状に、俺は本当はアメリカを祝いたくないんだろうかと、アメリカを前にしたら祝う気持ちがなくなってしまうんじゃないかと不安に思ったりもしていたが、本人を前にしても気持ちは変わることはなくて。
 こうしてパーティーをアメリカと一緒に過ごしていても、過去を思って沈むようなことは幸いなかった。
 驚くほどにアメリカの機嫌が良かったし、おかげで俺もいつものような棘もなく対応することが出来たから、そのせいもあるかもしれない。
 絶食に近い状態だった身だけに酒や食事を摂ることはあまり出来なかったが、目眩や吐き気はいつの間にか消えいて、不安に思っていたことが馬鹿らしいと思えるほどに、素直に楽しめていた。
 アメリカは今日の主役だけに、色々なヤツが挨拶に来たりプレゼントを渡しに来たりして忙しそうだったが、常に俺から離れることがなかったのが不思議と言えば不思議だ。
 他の奴らに話しかけられている時に邪魔しても悪いし、今日の主役を独占するのも申し訳ないだろと思って話し込んでいる間に離れようとしたのだが、そういった時には決まって腕を掴まれて留め置かれた。
 アメリカの誕生日パーティーにまともに出席するのは初めてだから、勝手が分からないだろう俺に気を遣っているのかもしれない。
 あのアメリカが? と思わぬでもないが、今日のアメリカは気味が悪いと思えるほど機嫌がいいので、長い時の中で、たまにはそんなこともあるんだろう。
 昼頃から始まって、そろそろ夕方を越えるという時間になっても、楽しいと思える気持ちが消えることはなかった。
 アメリカは常に俺を連れて色々とパーティー会場内の催し物を案内してくれたし、酒や食べ物が喉を通らないのを知ってか知らずか色彩の激しい食べ物を勧めてくることはなく、スープやゼリーといった喉を通りやすいものだけをたまに持ってきてくれた。
 本当に誰かに操られてるんじゃないかと思うほどに今日のアメリカはいつもの傍若無人さがなりを潜めていて、とうとう友人だとかいう宇宙人にキャトられて改造でもされたんじゃないかと不安に思ったほどだ。
 とは言え、会いたいと数日間思い続けていたアメリカに会えて、歓迎されているのだと思えば、嬉しくないわけがない。
 当初の不安が嘘のように、こうして誕生日パーティーを過ごせて。
 嬉しかった。
 楽しかった。
 来て良かったと、心底から思った。
 もう、不安に思うことなど何もないと、そう思えていた。
 ―――ひとつのことに、気づくまでは。

「イギリス、そろそろ花火が始まるんだぞ! 外でもいいけど、二階のバルコニーから見るのが一番綺麗なんだ。早く行こうよ!」
「おいおい、引っ張るなって」
 はしゃいだ様子で俺の手を引いて先を急ぐアメリカは、図体ばかりでっかくなった子供ようで、つい笑みを誘われる。
 遙か昔の独立前。こうして俺の手を引いて自分の見つけたものを見せようとしてくれた小さなアメリカを思い出したけれど、沸いてくるのは懐かしさと無邪気に見えるアメリカへの愛しさばかりで、胸が痛くなることはなかった。
 あれだけあった目眩も吐き気も今は遠く、過去を思い出せば付きまとっていた恐怖や不安も今はない。
 隔てられてしまった過去。それを経ても。
 こうして過ごせる今が、幸せだと感じる。
「もう疲れたのかい? 君、もうちょっと鍛えた方がいいぞ!」
「うるせぇ。お前みたいな筋肉バカと一緒にすんなっ」
 昼からあれだけはしゃぎ回っていて、よく疲れないもんだ。
 寝不足や体力低下がなくたって、俺は途中でバテてただろう。
 実際今日も、歩き回るのに疲れて何度か休憩をさせてもらっていた。
 そういえば、会場の隅で椅子に座ってぼうっとしてる間も、他を回ってくればいいのにアメリカは俺の傍に立って、黙って待っていてくれていた。
 あれがアメリカにとっても休憩になってたのかもしれないな。
「バカって言い方はないんじゃないかい? 人に文句言う暇があったら、歩いてくれよ。一番最初の花火が肝心なんだからね!」
「わかったよ。ったく、忙しねーな」
 文句は言っても、俺の顔が緩んでいるのはアメリカにだって分かってるんだろう。
 いつもみたいな皮肉に聞こえるけど、アメリカの声には棘がなくて表情も柔らかい。
「あ。疲れて歩けないって言うなら、俺が抱き上げて運んであげてもいいんだぞ。年寄りを労るのもヒーローの務めだからね!」
「なっ、ば、バカ! いらねーよ! 年寄りじゃねーし!」
 一瞬、アメリカに抱き上げられて運ばれる自分を想像してしまい、あまりの恥ずかしさに俺の手を引っ張ってるアメリカの腕を払おうとするが、どれだけ振り払おうとしても解けない。
 くそ、だから馬鹿力なんだよお前!
「はははは、冗談だよ。君、顔真っ赤だぞ!」
「う、うるせー! お前が変なこと言うからだろっ」
 顔の赤さまで指摘されて、恥ずかしさが倍になって、更に赤くなるのが分かった。
 悪循環だ。
 冷静になれ、落ち着け、と胸中で繰り返すけれど、アメリカの手は相変わらず俺の腕を掴んだままだし、アメリカはずんずん進むくせに前を見てなくて何故だか俺の顔を見てるし、からかうような台詞の割に、その表情に浮かぶのは悪戯めいたものですらない優しげなもので、どれもこれもが俺が冷静になるのを邪魔する。
 無理だ、こんなの。
 落ち着けるわけなんかない。
 冷静になれるわけなんかない。
 今日は、色々とおかしいことが多すぎる。
 俺も、アメリカも。
 何日も前から、アメリカに会いたいと思い続けていたせいだろうか?
 アメリカがらしくなく、気を遣ってくれたり、優しいからだろうか?
 今のアメリカが大切だと、そう思ってたのは確かで。
 今の関係を大切にしたいと思ってたのも確かで。
 ついでに、もう少し近づけたらと思っていたのも確かで。
 だけど、こんなのはおかしいだろう。
 いくら会いたいと思ってたからって。
 いくら大切だと思ってたからって。
 こちらの手を掴む手に。その熱に。向けられる優しい表情に。
 どうして熱くならなきゃいけないんだ。
 どうして、それらがずっと続けばいいのに、なんて思わなきゃいけないんだ。
 アメリカは「こっちだよ」と言いながら、屋敷の階段を上って二階へ半ば駆けるように進む。
 その顔は本当に嬉しそうで楽しそうで、それこそ彼が好む星型が周囲に舞っているかのように見えるほど。
 アメリカが楽しそうにしてるのを見るのは、楽しい。
 アメリカが嬉しそうにしてるのを見るのは、嬉しい。
 そんなのは彼が小さい頃からずっとで。
 アメリカの笑顔を守る為ならなんだって出来ると息巻いていたのは二百年も前のことの筈なのに、こうしてアメリカの笑顔を見ていると、すんなりと同じことを思ってしまう。
 随分長いこと、俺は彼を不機嫌にさせるかうんざりさせるかしか出来なかったから、こんな気持ち忘れてた。
 アメリカのてらいのない笑顔が俺に向けられるのなんて、一体何十年ぶりだろう。
 だけど、あの頃は、こんな風にアメリカに手をとられるだけで熱くなることも、いたたまれない気持ちになることもなくて、その一方でずっとこのままならいいのに、なんて思うこともなかった。

 アメリカ。お前がずっと笑顔ならいい。
 アメリカ。お前がずっと幸せならいい。

 二百年前と同じ言葉。
 なのに、全く違う言葉のように思える。
 二百年前と違う気持ち?
 なら、これはなんだ。

 アメリカが俺の手を引いて歩く。半ば駆けるように、けれど俺の歩調を少しだけ気にして。
 機嫌の良さが端から見ていても分かる足取りは軽く、踊るよう。
「イギリス」
 急かす声と裏腹に待っていてくれる速度。
 嬉しそうに呼ばれる名前。声。
 どれもこれもに愛しさと幸福を感じて、どうしていいか分からなくて泣きたいような気持ちになる。
 
 アメリカ。お前がずっと笑顔ならいい。
 アメリカ。お前がずっと幸せならいい。

 この日にまつわる様々なことは俺を未だに離してはくれなくて、この日を何も思わずに過ごすことは未だに難しいけれど。
 お前の幸せを願う気持ちに偽りはない。 
 今でも、お前の幸せを祈ってる。
 幼いお前と二人で過ごした穏やかな日々に願っていたよりも強く、強く、今改めて願う。

 アメリカ。お前がずっと笑顔ならいい。
 アメリカ。お前がずっと幸せならいい。
 そして、アメリカ。
 お前がずっと……俺に笑いかけてくれればいい。

 無理な願いだ。3つめだけは、どうせ。
 今、アメリカが俺に笑顔を向けてくれてるのは、今日だけの魔法のようなものだ。
 誕生日という、特別な日。
 傍若無人で他人に興味など殆ど抱かないくせに自分だけはいつだって注目されたくて、存外に寂しがり屋で構われたがりのくせに甘く見られることを嫌う彼が、祝ってほしいと素直に言える日。
 二百年以上、不参加を貫いて来た俺が参加したことも、彼なりに喜んでくれてるんだろうと思う。
 俺が祝うことが、彼にとって某かの意味になっているのかもしれない。と思うのは自惚れだろうか?
 それも、今日だけの魔法。
 誕生日が終わって、いつもの日々が戻れば、こんな笑みを俺に向けてくることなんてないだろう。
 来年の誕生日になら、見ることが出来るだろうか?
 それとも最初に参加した今日だけのものだろうか。
 去年、会場の外から垣間見た彼は楽しそうではあったけれど、ここまでの笑顔を浮かべてはいなかったから、やはり今年だけのものかもしれない。
 
 もう見ることはないんだろうと思うと、尚更に惜しくなる。
 ずっとこのまま、バルコニーになど着かなければいい。
 パーティーが終わらなければいい。
 
 アメリカ。お前がずっと笑顔ならいい。
 アメリカ。お前がずっと幸せならいい。

 あの頃と似て。けれど決定的に違う、泣きたくなるようなこの想いはなんだろう。
 過去に口にした願いとの差だけは、なんとなく分かる。
 あの時は、もっと優しい気持ちで願っていた。
 先の見えない時代にあって、ただ漠然と彼の未来に幸あれと願った言葉。
 今のは、違う。
 彼の幸せを心底から願った言葉なんかじゃない。言葉は同じでも、込められた意味は真逆で、酷く身勝手なもの。
 漠然とした幸せと笑顔なんて願えてない。
 ああ、どうしようもない。なんでこんなことを思うようになってしまったんだろう。
 アメリカが、こんな風に笑うからいけない。
 アメリカが、らしくなく俺に優しくするからいけない。
 ずっと欲して、得ることなどないと思っていたものを不意に寄越されてしまえば、なくなることに耐えられるわけがない。
 かつてのように願えない。
 これはアメリカの為の願いなんかじゃない。
 こんなのは、自分の為の願いで。否、願いですらない願望だ。

 アメリカ。お前の笑顔が向けられるのが、俺であればいいのに。
 アメリカ。お前の幸せの傍らにあるのが、俺であればいいのに。

 涙と共に滲み、溢れそうになる想いを、言葉を、堪えて喉の奥に押し込める。
 こんなのは酷すぎる。
 これじゃあまるで、アメリカのことが好きみたいだ。
 子供としてじゃなく、弟としてでもなく、もっと自分勝手で我が侭な好意。
 
 そんなこと、あるわけがない。あってたまるものか。
 俺は今、ちょっと寝不足で頭の回転も鈍いから、思考回路が少しばかり壊れているだけだ。
 必死に否定して、冷静になれ正気に返れと何度となく自分に言い聞かせるけれど。
「イギリス、ここだぞ!」
 向けられる笑顔が暴力的なまでに眩しくて。名を呼ぶ声の響きが甘く聞こえて。
 俺の滑稽なまでに健気な努力を一瞬で打ち砕いていく。
 こんなところまで問答無用に傍若無人じゃなくてもいいじゃのに。
 アメリカという男は、本当に酷い。
 いつも俺には、うんざりした顔や呆れた顔しか見せないくせに。
 どうして今日に限って、眩しいほどの笑顔を惜しげもなく見せてくれるんだ。
 お陰で、気づきたくなかったことに気づいてしまった。
 今日が終われば、もう二度と俺に対して向けられることなんてないと分かってるのに。
 ―――気づいてしまった。
 
 俺は、アメリカが好きなんだ。
 家族としてでなく、多分、恋愛の意味で。

 





 辿り着いたのは、屋敷の二階のほぼ中央にあたる、広間だった。
 一階のホールよりは流石に劣るが、ここでもちょっとしたホームパーティーを開けそうな広さがある。
 両開きの扉を開けて中に入れば、アメリカの家のものにしては品があって落ち着いた色合いの応接セットが置かれていて、新しい物好きの彼らしくなく、年代物であることを伺わせるインテリアに少しばかり首を傾げた。
 俺の家の名残が見え隠れするそれを通り過ぎて、アメリカは真っ直ぐにバルコニーへ続くガラス扉へと進んでいく。
 ここを開ける段階になって、ようやくアメリカの手が俺の腕から離れた。
 想いを自覚して余計に居たたまれなさを感じていたのでホッとするが、その一方で、いざその温もりが離れていくと寂しいと感じてしまう自分が居ることも確かだ。
 扉を開けるアメリカの手を気が付けば視線で追っていて、己の未練がましさに嫌気が差す。
「良かった、間に合ったみたいだぞ」
 ガラス扉を開け放ったアメリカは、暗くなり始めた空をきょろりと見渡してひとつ頷いた。
 どうやら花火の打上はまだ始まっていなかったようだ。
 無理にアメリカの手から視線を外して、俺もガラス越しに外の空を見遣―――ろうとして、固まる。
 離れた筈のアメリカの手が、再び俺の腕をとって、引っ張ったのだ。
「な」
 目と口をぽかんと開けて思わず外へ向けていた視線を戻してアメリカの顔をマジマジと見上げるが、アメリカは良く分かってない様子で、手を引く力をほんの少しだけ強くする。
「ほら、イギリス。ここまで来たのに部屋の中で止まってたら意味がないじゃないか!」
 そう言ってアメリカは俺をバルコニーまで連れ出し、優美な線を描く華奢な柵の傍らまで引っ張っていった。
 勘弁してくれ。
 こっちはさっきから、些細な表情やら接触に振り回されっぱなしなんだ。
 挙げ句の果てに、厄介な事実まで気づいてしまって余裕なんかないってのに。
 そうやって、なんでもないことのように触れないで欲しい。
 ただでさえ体力も思考力も衰えている今、心臓が保つ自信がない。
 それに―――こんな状態では、いつ口を滑らすか分かったものじゃない。
 掴まれた腕にじんわりと滲む熱。
 一度離れ、戻ってきたソレに安堵を感じてしまう自分に、危機感を募らせる。
 気づきたくなかった。
 気づいてしまった。
 だけど、だから。
 知られるわけには、いかないじゃないか。
 せっかく、皮肉混じりであっても普通に語らえるようになって。
 せっかく、歩み寄ろうと決めて、誕生日を祝おうと思えるようになって。
 せっかく、今の関係を今のアメリカを大切にしたいと思えるようになって。
 せっかく、こうしてアメリカが今日だけだろうとは言え、俺にも優しくなってるのに。
 こんな気持ちが知られたら、全て台無しだ。
 共に兄弟のように暮らした過去も。
 壊れた後、築き直してきた今も。
 今日だけだろう、この優しさも。
 そして……俺がどれだけ拒否しようが、毎年届けられ続けた招待状さえも。
 気づいてしまった気持ちを知られれば、全てが壊れ、なくなってしまうだろう。
 それだけは、それだけは嫌だ。
 一度、明確に感じてしまった危機感と恐怖は一瞬で俺の胸を覆い尽くしていく。
 アメリカに握られた手。そこからこの気持ちが伝わってしまうのではないかという馬鹿な妄想に囚われる。
 アメリカが好きだ。
 アメリカに触れられているだけで、らしくなく舞い上がってしまう。
 触れる些細な熱すら愛しくて、ずっと離れなければいいのにと思う気持ちは確かにあって。
 けれど、そこから全てが壊れてしまう恐怖の前には、ささやかな願いに身を浸している余裕などない。
 嬉しいという気持ちを黒く塗りつぶしていく不安と恐怖に押されるように、俺はアメリカに握られた手を強く振った。
「おい、離せよ」
 しっかりと握られた手はそれくらいじゃ離れはしなかったので、仕方なしにアメリカに直接言うしかない。
「ああ。痛かったかい? 君は貧弱だものな!」
 照れを不安を恐怖を知られたくなくて目を逸らして行った抗議は、アメリカの耳に届いた筈で。
 返ってくる言葉もいつものような、からかい混じりのものなのに、何故だかアメリカは掴む力を僅かに緩めただけで、手を離すことはしなかった。
「お前が馬鹿力すぎるんだっ。つか、離せって言ったろ」
 言いながらも、アメリカの手から自分の手を取り戻そうと引いてみたり捻ってみたりするが、そうするとアメリカはまた握る手に力を入れてきて、失敗する。
 ほんとに何がしたいんだお前。
「駄目だよ。そろそろ夜だしね。今日はずっと、こうしといて貰うよ!」
「はぁ!?」
 思わぬアメリカの言葉への反応は、酷く間抜けた声と顔になった。
 いきなり何を言い出すんだこいつは!
「な、ななななんでだよっ。大の男二人が手つないだままって、おかしいだろ!」
 混乱のまま正論めいたことを言ってみるが、アメリカは拗ねたような表情でフイと顔を逸らし、不満たらたらと言った体で
「君なんかを野放しにしたら、どうせ酒飲んで酔っぱらって大暴れするだろ。俺の誕生日にそんな悪事は許せないからね! 俺がこうして君を捕まえて皆を守ってるんだぞ!」
 そう、言ってきた。
「分かったら、おとなしく俺に捕まってるんだね!」
 ついでの、駄目押しつきで。
 ああ。
 ああ、そうか……。
 そうだよな。
 呆気にとられてアメリカの顔を見上げていた筈の視線が、意識せずに徐々に下がってバルコニーの床へと落ちる。
 今日ずっと笑顔だったアメリカが見せた不満げな顔。それと共に吐かれた言葉に、傷つきながらも納得してしまった。
 パーティーの間中、俺についていてくれたのも。手を繋いでくれていたのも。
 それが理由なら、納得がいく。
 ああ、でもアメリカにしては上等な方だ。俺一人に気を遣ってるなんてよりも、ずっと立派だ。
 いつも空気の読めない自分勝手な彼にしては、周りの皆の為にそういう気を回したんだろう行動を、褒めてもいいぐらいだ。
 その内容が、《俺が酔って暴れるのを防ぐ為》というのが腹立つが。
 人を気遣えるようになったことは、喜ばしいじゃないか。
 理由に腹をたてて「誰がそんなことするかばかぁ!とか「大きなお世話だ!」とか文句を言っても。
 そんな風に見られていることに落ち込むことはあっても。
 今日のアメリカの行動の理由が《俺の為じゃなかった》ことに落ち込んで傷つく理由なんて、どこにもない。
 少なくとも、アメリカに対して向ける抗議になんて、なるわけがない。
 たったひとつ理由があるとすれば、それは俺がアメリカを好きだから。ということだけだ。
 知られるわけにいかない一方的な感情を理由に傷ついたからって、そんなのは本当に俺の勝手であってアメリカにどうこう言える筋合いじゃないのだ。
 だが今、言葉を失って勝手にへこんでいる理由は、間違いなくそれで。
 だから普段の俺なら言って当然の筈の言葉さえ出てこなくて、意味もなく何度も口を開閉させて、言わなければいけない言葉を思い出せずにいる。
 さっきまで居たたまれない一方で浮き立つような気持ちに俺をさせていたアメリカの手から伝わる熱は、今は俺を責めているようにも感じた。
 どこにもアメリカを責める要素なんてなくて。俺が勝手に、アメリカの行動が珍しいけれど天変地異の前触れかもしれないけれど、ひょっとしたら僅かであれ俺の為なんじゃないかと、俺に気を遣ってくれたからなんじゃないかと期待して。それが事実でなかった。ただそれだけの話なのに。
 そんな勘違いをしている俺を、責めているんじゃないかと。
 くだらない妄想だ。
 早く、何かを言わないと不審に思われる。勘ぐられる。
 知られるわけにはいかないんだから、いつもやってるように、アメリカに対して文句を言わなければ。
 大きなお世話だと怒鳴って、手を振り解かなければ。
 何度も胸の内で言い聞かせるけれど、思ってた以上に俺の落ち込みは深いらしく、怒鳴るような気力が欠片も湧いてこない。
 それどころか、立っている気力さえ失われて、何もかも投げ出して倒れ込んでしまいたい衝動に駆られてもいた。
「イギリス……?」
 葛藤を繰り返す間に、当たり前だがこちらの反応を不審に思ったアメリカがとうとう問いかけてきた。
 驚いたような、戸惑うような声。
 言い過ぎたと、後悔しているのかもしれない。
 アメリカは俺に対しては冷たいことも酷いことも言うが、基本的には優しい性格をしている。多分。恐らく。きっと。
 ヒーローを自称するだけあって女子供には当然のように優しいし、男相手でも遠慮をしないのと空気を読まない発言なだけで、悪と決めつけた相手以外には、わざと傷つけるような物言いをすることはあまりない。筈だ。
 だから俺相手であっても、本気で傷ついたと知ればフォローくらいしてくれるのだ。たまにだけれど。
 アメリカは掴んだままの俺の手を引いて引き寄せ、俯いている俺の顔を伺おうとしてくる。
 みっともないことになってるに違いない顔を見られたくなくて、下を向いたまま、自由な方の手でアメリカの体を押し、それを止めた。
 その拍子に、腕にかけていた紙袋がふらりと揺れる。
 ああ、そう言えば……プレゼントをまだ渡していない。
 頭のどこか隅でそう思いながら、俺は苦労して口を開く。
「はは、ばーか。飲まねぇよ、今日は。安心しろって」
 声は、震えていないだろうか。
 平然とした、もしくは小馬鹿にするかのような声で言えただろうか。
 アメリカを押しのける手は。繋がれた手は。震えていたりしないだろうか?
 心の奥が震えていて、もうどこが正常に動いているのかも分からなくて、祈るしかない。
「一滴も飲まねーし、暴れない。女王陛下に懸けて誓う。だから」
 いいだろう、もう。
 手を離してくれ。辛いんだ。
 離して欲しくないのに、離すことを願わなければならないのが辛い。
 お前のせいじゃないけれど、全部何もかも俺のせいだけれど。
 お前なんかを好きなった、好きだと気づいてしまった俺のせいだけど。
 これ以上、俺の為にお前が何かしてくれるなんて馬鹿な期待を抱く前に。
 離してくれと思うのに、性懲りもなく、繋がれた手を惜しんで離せなくなる前に。
 俺の思いが、つないだ手からお前に伝わってしまう前に。
 手を握られているくらいで、ここまで翻弄されてしまう俺のどうしようもなさが、お前に伝わる前に。
 頼むから、離してくれ。
 祈るように願った。
「………」
 沈黙が落ちる。
 階下からは楽団の演奏や楽しげに語らう人々の喧噪が聞こえてくるのに、このバルコニーだけが別世界のように静かで重く感じられた。
 そういえば、ここには俺とアメリカしかいない。
 パーティーはメイン会場が庭で、一階のホールも使われていたけれど、二階へ昇る階段でも廊下でも人とはすれ違わなかったことを思い出す。
 花火を見るならバルコニーが最高なのだと言っていたから、もっと人が居るのだと思っていたのに、考えてみればおかしな話だが……今となってはどうでもいい。
 むしろ、こんなみっともない姿を見られなくて済むので、何故だか知らないが誰もいなくて良かった。
 幸運に感謝しながらアメリカを押しやるのと同時にもう一度掴まれた手を引くと、アメリカの口から溜息がひとつ落ちて―――ようやく、こちらの手を掴む力が緩められる。
「わかったよ」
 不本意そうな声に、ずっと機嫌の良かったアメリカの不機嫌そうな声を、今日始めて耳にしたことに気づく。
 さっきの声はまだ、不満そうではあったけれど不機嫌とまではいかなかったのに。
 今のは、明確に温度が低かった。
 せっかくずっと機嫌が良かったのに。ずっと笑顔で居てくれたのに。
 消えてしまったそれを寂しく残念に思いながら、簡単に解けるほど緩められていたけれど離してくれたわけではなかったアメリカの手から、自分の手をそっと引き抜く。
 アメリカの手から逃れたことに心底から安堵すると同時、やはり寂しいと思ってしまう。
 自分から解くのは、何度もそうしようと思っていたくせに、なかなか難しいことだった。
 ただでさえ珍しすぎる事態だ。もうこんな風に手を繋ぐことなどないのだろうなと思うと、尚更惜しむ気持ちが湧いてくる。
 無意識にぬくもりを追いそうになる手をきつく握りしめて体の横へと下ろし、意識して動かさぬよう固定した。
「その代わり、俺の目の届くところにいてくれよ!」
 まだ少し機嫌の悪そうな声で言うアメリカの声が頭の上から降ってきて、苦笑が零れる。
「ああ。わかった、わかった」
 まったく、俺はどれだけ酒乱だと思われてるんだか。
 否定しきれないのが辛いところだが。
 本当を言えば、これ以上みっともない姿をみせる前にアメリカの前から消えてしまいたかったが、こう言われてはそうもいかない。
 それに、花火を見ようと言ってくれたのだから、その誘いまで無駄にしたくなかった。
 いや、違うな。
 本当の、本当は。
 やっぱり、アメリカと一緒に居たいだけなんだろう。
 手を離して欲しいと思っても、離して欲しくないと思ってしまうのと同じように。






「花火、そろそろだぞ。あっちの方から上がるんだ」
 気を取り直したように、明るい声に戻ったアメリカがバルコニーの外、庭の奥の方を指さした。
 いつまでも下を向いているわけにもいかず、軽く頭を振って気持ちを切り替えて、示された方を向こうとして―――片腕に下がったままの紙袋に、もう一度気づく。
 そういえば、さっきも思ったんだった。
 まだアメリカに、プレゼントを渡していないじゃないかと。
 喜んでくれる可能性は凄く低いが、それでも貰ってほしくて買ってしまったプレゼント。
 そうだ。まだ渡せていなかった。そろそろ、いいだろうか。渡してしまっても。
 ここに来るまで、他の奴等が渡している時に紛れて渡そうとしたり、休憩の最中に思い出して渡そうとしたり。何度かそういう機会はあった筈なんだが、その度に
『それは後でいいよ』
 とか
『今日は俺の誕生日なんだから、君が荷物持ちってことでいいじゃないか』
 とか
『君のプレゼント、どうせまた古くさい仕掛けがついてるんだろう? その手には引っかからないんだぞ!』
 とか言われて、結局受け取ってもらえずに、未だに俺の手にあるのだった。
 ……あれ?
 ちくりと、胸に何かが引っかかる。
 なんか、おかしくないか?
 後で言われて、それもそうかと納得した。
 荷物になるからと言われて、それもそうだし、しょうがないから持っててやるかと思った。
 だけど、考えてみれば次々やってくる招待客からのプレゼントをアメリカは嬉しそうに受け取っていたし、それらは直ぐに使用人達に預けられ一カ所に飾られていたような気がする。
 俺のプレゼントだけ持ち歩かなければならない理由もないのだから、荷物になるというのは理由にならない。
 あれ……?
「………」
 ずしりと。今まで気にもしてなかった腕にかけた紙袋が、酷く重くなったような錯覚を覚える。
 もしかして。
 もしかして、アメリカは―――俺からのプレゼントを、受け取りたくないんじゃないか―――?
 浮かんでしまった疑問が胃の辺りを冷たくした。
 そんな、まかさ、いくらなんでも。
 だって、アメリカは苦手としてるロシアからだってプレゼントを受け取ってる。
 誰だっけ。と、失礼にも名前も覚えていないらしい国からだって、平然とプレゼントを受け取っているんだ。
 あげる方なら渋るのは分かる。理由の分からぬ贈り物も、受け取らないのは当然だ。
 だが、今日はアメリカの誕生日パーティーで。誕生日プレゼントを受け取らない理由なんて、どこにあるんだ?
 誰だって、招かれたなら礼儀としてプレゼントのひとつくらい持ってくる。
 それを受け取らないのは、なんでだ。
 いくらなんでも、俺から貰いたくないとか、そんなことはないよな?
 招待状に添えられた手紙には、プレゼントを用意するようにと書いてあった。
 プレゼントを開けるまで、付き合うようにとも書いてあった。
 受け取る意志がないのだとは思えない。思いたくない。
 まさか、そんなことはないだろう。
 言い聞かせるけれど、一度沸き上がった不安を拭い去るには未だ俺の手にある紙袋の存在は重すぎて、消えてくれない。
 手紙で言っていたように、去年みたいな仕掛けをしてないかと警戒してるだけだ、きっと。
 花火を待って、暗くなりかけた空を見上げるアメリカの背を見つめる。
 もう一度、渡してみよう。
 罠を警戒してるとしても、周りに誰もいないし今ならば失態を見られる心配もないのだし。
 パーティーもそろそろ佳境なのだから、「後で」に叶っているだろう。
 不安と緊張の為か渇き始めた口の中を、ごくりと唾を飲み込むことで無理矢理に潤して、アメリカの背へと声をかけた。
「アメリカ」
「ん?」
 呼べば、すぐに彼は振り返ってくる。
「なんだい、イギリス」
 先程一瞬だけ見せた不機嫌さも今は見えない。こちらを真っ直ぐに見てくる目は、今日の殆どがそうであったように、楽しげに煌めいていた。
 それに安堵し、背中を押されたような気になって、俺は手にしていた紙袋をアメリカへと突きつける。
 けれど、アメリカは紙袋を意外そうに見て、それから僅かに眉を寄せた。
「なに?」
「プレゼント、だろ。わざわざ今まで持っててやったんだから、そろそろ受け取れよ」
 問い返されたことに、そして寄せられた眉にひやりとするが、今更引っ込めることも出来ない。
 自棄になったようにアメリカの腹のあたりに紙袋をさらに押しつける。
 頼むから受け取ってくれ、と願いながら。
 なのに。
「やだよ」
 きっぱりと言い切って、アメリカは紙袋を俺に押し返した。
「君のは後で貰うって言ったろ? あと少しじゃないか。持っててよ」
 冷たく響く声は、再び不機嫌の色に染まる。
 目の前が、暗くなったような気がした。
 後でって。後でって、それ、いつだよ。
 何度も渡そうとして、その度に受け取らないのは、なんでだ?
 他のヤツからは何時でも受け取るのに、俺のプレゼントだけ後回しにして受け取らないのは、なんでだ?
 去年仕掛けた悪戯を怒ってるのか。
 そうでないなら、何故。
 拘ることじゃない。後でと言っているのだから、パーティーの終わりにでも押しつければいい。
 理性は頭の隅で告げるけれども、感情がついていかない。
 なんで、なんで、どうして。
 聞き分けのない子供のように、そればかり繰り返す。
 落ち着け。プレゼントなんて些細なことだ。
 今日はアメリカの誕生日なんだ。俺はここに何をしに来た?
 プレゼントを渡す為? 
 それもあるが、何よりもアメリカを祝う為だろう?
 アメリカを不機嫌にさせる為でもなければ、必要とされない、受け取りたくないと言うプレゼントを無理に押しつける為でもない。
 アメリカを祝う為に来たんだ。
 だから、気にすることじゃない。
 俺が傷つくことじゃない。
 俺が怒ることでも、泣くことでもない。
 言い聞かせるのに。
「…………ッ」
 目の前が暗くなって、目頭が熱くなって、胃の辺りが苦しくて辛くて。
 喉の奥、胸の奥から熱くて苦しい何かがせり上がってくるような感覚に襲われる。
 手にした紙袋が酷く重くて、厭わしい。
 必死に、選んだんだ。
 お前は気に入ってくれないかもしれないけど。
 それでも、お前にと。
 お前に似合うものを。相応しいものを。そう思ったら、他を選べなかった。
 嫌がられるかな、と思っても。一度くらいはつけて貰えたらと期待して。
 誤魔化すように、当たり障りのないダミーを用意するくらい、必死で。
 今日アメリカが受け取る多くのプレゼントに埋もれてしまうだろうと分かっていたけれど。
 受け取って欲しかった。
 せめて否定はしないで欲しかった。
 アメリカを祝う気持ちを。
 アメリカを祝う俺を。
 お前を好きだという、そんなものを押しつけたりはしないから、せめて。
 口から零れそうになる嗚咽を、歯を噛みしめて堪えながら。
 ああ、そうか……と、頭のどこかが妙に冷静に納得していた。
 なんで急に、受け取られないプレゼントがこうも気になったのか。
 ……そうか。
 アメリカへの気持ちに、気づいてしまったからだ。
『好きだ』
 そんな気持ちを、伝えるわけにはいかないから。
 せめて、プレゼントは……アメリカを祝う気持ちだけでも、受け取って欲しいと思ったから、だったのか―――。
 なんて身勝手な理由。
 最低だ。
 純粋に祝おうと思ってた気持ちさえ、自分でねじ曲げたのか。
 何が、祝う気持ちだ。
 『好き』の代わりなんて、アメリカが受け取りたがらないのも当たり前だ。
 そう思うのに。
 喉の奥からこみ上げる苦しさは増すばかりで、噛みしめても噛みしめても、抑えきることが出来そうもない。
「イギリス……?」
 紙袋をアメリカに押しつけたまま、俯いてというより上半身を伏せるような態勢で止まっていた俺の背に、気遣うようなアメリカの手が伸びてきて、それがとどめになった。
「なんでだよっ!」
 叫びだして、紙袋を持ったままの両手を、アメリカの胸に何度も叩き付けた。
 理不尽でも、身勝手でも、止められない。
「受け取るくらい、したっていいだろーが!」
 一度口を開けて叫んでしまえば、後から後から抑えていたものがあふれ出す。
「そんなに、そんなにっ、俺のプレゼントは受け取りたくないのかよ!」
 こんなのは八つ当たりだ。
 受け取らないなんて、アメリカは言ってない。
 俺は卑怯だ。
 怖いだけなんだ。要らないと言われるのが。
 分かっていても止められない。
 言葉が、涙が、溢れてきて、どうにもならない。
「ちょっ、そんなこと誰も言ってないだろ!?」
 アメリカの言葉も、耳に入らなかった。
 入ってきても、聞かなかった。
「俺は! 俺だって……!」
 叫ぶような声は、せり上がる嗚咽に邪魔されて、途切れ途切れになってしまう。
「お前を……っ」
 祝いたいんだ。
 祝いたいのに。
 どうしてこんなに、上手くいかない。
 楽しみにしてたのに、眠れなくなるのも食べれなくなるのも体調が悪くなるのも変わらなくて。
 お前と居られるのが嬉しかったのに、余計なことに気づいて素直に喜べなくなって。
 挙げ句の果てに、たかがプレゼントを受け取ってもらえないくらいのことで、こんな八つ当たりじみた真似をしてアメリカを詰ってる。
 いつだって俺は、アメリカに対しては上手く物事を運べない。
「い、いわ……祝って……おめで、とう、……って!」
 泣きすぎてるせいなのか、自分の嗚咽が五月蠅すぎるせいなのか。
 頭が痛い。目眩がする。視界はもう暗くて揺れて、アメリカの姿もろくに見えない。
 どこか遠くで、イギリス、イギリス、とアメリカが俺の名を繰り返し呼んでくれているような気がしたが、よく分からなかった。
 その代わり、両の手首に加えられた痛いほどの力と、次いで訪れた身体を覆うように伝わる温もりから、手首を掴まれ引き寄せられたことを辛うじて知る。
 駄目だと分かっているのに、抱きしめられているような包み込む温もりが愛しくて、安らぎを覚えて。
 涙が流れるままになっていた目を閉じて、力を抜いた。
 視界が完全に閉ざされれば、急速に意識が遠のいていく。
 こんな突然泣き叫んだ挙げ句に気を失うなんてみっともない姿を見たら、アメリカだって今度こそ俺を完璧に嫌うだろう。
 駄目だ、せめて謝らなければと思うのだけれど。
 ぎゅっと強く抱きしめられているようで、何かの間違いか勘違いだと分かっていても嬉しくて。
 遠ざかる意識を引き留めることが出来ない。
 
 ごめん。
 ごめんな、アメリカ。
 八つ当たりして、ごめん。
 素直に祝えなくてごめん。
 それから……好きになってごめん。
 ごめん。
 ごめんな。
 でも。

 好きなんだ。

 そうして意識が閉じる瞬間。
 遠くの方で、花火の上がる音がした。




 心の奥からじんわりと暖かくさせてくれるような温もりを、感じていた。

 遥か昔にはじめて手にした温もりを思い出す。
 のばされる小さな手。小さな体で精一杯にしがみついてくる、可愛く愛しい子供。
 あの時、生まれて初めて、こんなにも安堵できる温もりがこの世には存在するのだということを知った。
 戯れや一時の慰めで求めるものは勿論、今まで自分が恋だと思っていたはずの相手から得られるものとも違う暖かさ。
 触れあう肌の温もりがただ伝わるだけのものではなく、心の底から湧き出でるように。でなければ、春の日だまりにゆっくりと温められているかのように、それは優しく穏やかな温もりだった。
 長い生の中、人がそういった温もりのことを口にするのは何度となく聞いてきたが、それは決して自分には手に入らないものなんだろう思っていた。
 自分は人と違う存在―――《国》だから。
 生きる時が違う。価値観が違う。見目は似ていても、成り立ちも性質も違う。
 人が唱える《愛》などによって結びつくべきものはなく、人同士が持ち得るものとは違う愛で国民を愛し続け忠実であることだけが許された全て。互いの個を認め、共に立ち、並びながらも愛し合う存在など、《国》に持ち得る筈もないのだと。
 他国は全て利用するかされるか、潰すか潰されるかであり、敵か、現時点では明確な敵ではない潜在的な敵か、その二種類しか存在しないと、そう思っていた。
 人とも違う、そして現時点で敵でないというだけの敵でもない存在など、居るわけもないと考えすらしなかった。
 可能性すら知らなかったものの存在は、考慮とも否定とも無縁だ。
 だから初めて《アメリカ》の存在を知った時も、彼はただ単に《敵ではない存在》でしかなかった。違う部分があったとすれば、まだ未熟で幼い相手だから与しやすいだとか、己と己の国民により益をもたらしてくれる存在になるだろう、そうしてやる。と言ったような計算高い思いだけで。
 彼がヨーロッパの流れを色濃く組む容貌を持ち、確かに己と同じ某かのものを受け継いでいることを確信しても、争い合い続けてきた兄弟のことを思えば、それは己を安堵させるには値しない要素だった。
 けれどそれも、僅かの間のこと。
『今日からお前は、俺の弟だ!』
『うん。じゃあ、おにいちゃんってよぶね』
 今思えば不審極まりなかっただろう己に向けて、真っ直ぐに向けられた空色の瞳と微笑みに、自分は瞬時に落ちていた。
 敵意も警戒すらなく受け入れられ、返された好意に酷く戸惑って。
 それから、じんわりと……居たたまれない程に、嬉しくなった。
 幼いとは言え《国》なのに、敵でない存在が居ることが。自分を嫌わず、憎まず、警戒せず、素直に受け入れてくる存在が居ることが嬉しくてならず、感動すら覚えた。
 兄の座をフランスと争った時、彼が自分を選んでくれたことは、今考えても理由は分からず、奇跡としか思えない。
 ざまーみろとフランスを蹴りだした後、改めて小さなアメリカに向けておずおずと両手を差し出した自分に、アメリカは小走りでかけて来て、小さな両手を伸ばして全身で抱きついてきた。
 受け止めたその重みと暖かさに、泣きたいほどの安堵と幸福を覚えたことは、今でも鮮明に覚えている。
 世界の全てが変わったようだった。
 どれほどの富をもたらしてくれるのかと、検分するように見えていた大地や景色が、途端に神聖で愛しく光り溢れるものに見えて。
 気にしたこともなかった空の色が、腕の中の子供と同じ色なのだと気づいて、空の全てが美しく見えた。
 頬を撫でる風も、無骨ながら逞しく力強さを感じる大地も、何もかもが愛しく思えた。
 利をもたらす何か。そんな無機物に対するようだった見方の何もかもを変えていき、気が付けば全てが目映く、美しく、愛しい。
 人が信じる神というものを《国》であるイギリスはさほど熱心には信じていなかったが、あの時ばかりは神に、何かに、ありったけの祈りと感謝を捧げた。
 そうでもしないと、幸福と歓喜に押しつぶされて、どうにかなりそうだった。
 手の中に収まるこの小さく愛しい存在に、全ての恵みよ在れ、と。
 どんな些細な苦難も苦労も不幸もこの子に降りかかることなどないようにと。
 そして、胸に湧き出でて溢れんばかりの愛しさを、叫びだしたいような思いで感謝として捧げた。
 感謝します。
 この子に出会わせてくれた全てに感謝します。
 この子を生みだした、大地と、人と、全ての事象に感謝します。
 何もかもが奇跡のようで。
 あの時、自分は世界中に向けて歌いだしたいような気分だったのだ。
 神への感謝と、腕の中で眠る幼子に向ける感謝と。
 そしてなにより―――胸から溢れて止まることのない、よろこびの歌を。
 
 生まれてくれたことが。
 出会えたことが。
 出会えて、そして自分を選んでくれたことが。
 こうして腕の中で安らいだ表情で眠ってくれていることが。
 愛というものを知らなかった自分に、それを教えてくれたことが。

 何もかもが嬉しく、喜びに満ちて。
 あの瞬間、確かに自分は世界中の誰よりも幸せであり、よろこびを謳ったのだと、今でも確信している。

 それは、全ての根源。

 例え、幼子が成長し、己の下から独り立ちをしても。
 例え、その道程ですれ違い、互いに銃を向け合うことになろうとも。
 例え、向けられる冷たく心ない言葉に傷つこうとも。
 例え、かつての手痛い決別が未だに消えぬ傷となって己を苛み続けていようとも。
 例え、誕生を祝う筈の日を、己との決別の日と定められようとも。 

 心底憎たらしく思う時はあるけれど、それでも。

 嫌える筈がない。
 祝わぬ筈がない。
 喜ばぬ筈がない。

 お前の誕生を。
 お前が生きている今を。
 お前の存在を。

 彼へ向ける想いが、いつ変質してしまったのかは、未だに分からない。
 気づいたのは先程だが、弟と思っているのだと己に言い聞かせ続けていただけで、もうずっと昔から変質していたのかもしれなかった。
 反旗を翻され離れられたことが辛くて、暫くの間は顔を見ることすら苦痛だったというのに、それでも顔を見れば愛しかった。近づきたかった。話しかけたかった。
 元より仕事を挟まぬ人付き合いには不慣れな身のせいか、沸き上がる思いをどうすればいいのか分からなくて。
 けれど欲求を諦めることも出来ずに、仕方なく独立を詰る言葉や恨み言めいたことを口にして、彼へ話しかけた。
 少しは情勢が落ち着いてからも、己の中の欲求は増すばかりで。
 姿を見れば、目で追っていた。
 幼い頃の甘やかな少年の声とはもう違うと分かっているのに、様変わりしてしまった声も何故だか聞きたくて、理由を無理にでも探して、彼の服装や態度のだらしなさを上げ連ねることを、そのうちに覚えた。
 それから、もうあの手が己に向けて伸ばされることはないのだと分かっていても、触れたくて。口だけで注意しても直らないからしょうがないのだと己に言い聞かせて、手を出して直して彼の服を直してみたことも何度となくある。
 その時は、何も考えてなかった。
 反射のように体は動き、思考はただアメリカに一直線に向かっていて、近づきたいと思うことも、声を聞きたいと思うことも、触れたいと思うことも自分にとっては当たり前すぎて、その理由など考えたこともなかったのだ。
 
 愛しい愛しい小さなアメリカ。
 代え難く、決して失いたくないものであり、彼との決別は未だ己に大きく傷を残している。
 だが、その存在が当たり前のものであると、果たして自分は思っていただろうか?
 手にしたものが無条件に永遠のものであると思えるほど、自分は甘い性格はしていなかった筈だ。
 それが馴染みのない《愛》というものであれば尚更のこと。
 永遠であればいいと思った。離れることが許し難かった。
 けれど、本当に永遠を信じていたのかと言えば、答えは否だろう。
 信じたいと、思っていた。
 永遠であればいいと、祈っていた。
 そう。祈っていたのだ。
 全身全霊をかけて。あの日に謳った歓喜と同じだけの強さで。
 どうか、どうか。この存在が失われませんように。
 どうか、どうか。この愛が失われませんように。

 けれど日々、彼が成長していく中で―――胸が掻きむしられるほどの切実さでもって祈る自分の心は、果たして兄として適ったものであっただろうか?
 弟だと思っていた。それが、全くの偽りだとは思わない。
 結果から言えば上手くいかなかったとしても、自分は彼にとって良い兄であろうとしたし、その努力だけは惜しまなかった。
 兄と慕われることが嬉しかったし、それに不満を覚えたこともない。
 世間の兄弟というものが、どういうものなのか。結局のところ真っ当な兄弟関係を結べたことのない自分には分からないけれど。
 少なくとも、必死に神に祈り縋って継続を願うのは―――兄弟の絆とはほど遠いと思える。

 一度は別たれ。その後、長い時間をかけて《他国》から《友好国》へと歩んできた。
 その間も、己にあるのは祈りのような願いばかりではなかったか?

 どうか、どうか。これ以上、嫌われることがありませんように。
 どうか、どうか。ほんの少しだけでいいから、近づけますように。

 一体いつから?
 そんなことは、考えるだけ無駄なような気がしてきた。
 中身など、細かな質など気にしたところで、今更どうしようもないのだろう。
 
 ただひとつ、確かなこと。
 結局のところ、自分はアメリカを今も昔も愛しているのだ。
 小さな子供のアメリカも。今の可愛げなど全くないアメリカも。
 憎しみ混じりになることがあっても、出会ったあの日から、決して途絶えることなく。
 己の個としての愛は、全てアメリカへと向かっているのだ。

 これでは、アメリカに鬱陶しがられるのも当然だ。
 一体何年越しだ?
 二百と三十年以上、延々とアメリカを愛し続けていることになる。
 我が事ながら、正直気持ち悪いと思わざるを得ない。
 弟だから、元弟だからと言い訳してきたが、アメリカは本能的にその裏にあるこちらの必死さに気づいているから、あそこまでの拒否反応を自分に示すのかもしれないとさえ思った。
 実際、もし自分が兄弟からこんな重苦しい愛を延々と投げ続けられたなら―――想像するのは酷く困難なことではあったが―――耐えられないと思う。
 まだハッキリと気づかれてはいないと思うが、気を付けなければ。
 あれだけ兄としての立場に拘っていた筈の自分が、本当はその裏で弟に向ける以上の重苦しい愛を抱いていたと知られたら、気味悪がられるどころではないだろう。
 
 そう、思うのに。
 
 それでもどこかで、浅ましく願う自分がいることに辟易とする。
 本音を言うのならば、やはり自分の思いを受け止めて欲しいと願う気持ちはある。
 願うだけ無駄だからそこまでは求めないし、この想いを受け入れてくれる夢など見ることすらおこがましいと思うが。
 せめて、せめて。
 ほんの少しの友情にも似た好意を求めては、いけないだろうか。
 せめて己が彼に向ける好意を、認めないまでも否定しないで欲しいと思うのは。
 自分の存在を否定しないで欲しいと思うのは、そんなに大それた望みだろうか?
 それは、願うことすら罪になることだろうか?
 ―――そうかもしれない。
 思うだけは自由だとしても、それを相手に受け取ることを強要するような真似は、罪だ。
 ずきりと胸が痛む錯覚を覚えて、突き返されたプレゼントを思い出す。
 受け取ってもらえないプレゼントに自分の想いを重ねたりして、本当に俺は馬鹿だ。
 アメリカは戸惑っただろう。悪いことをしてしまった。
 
 己の失態を思い浮かべれば、ようやく今どうなっているのかということに考えが至った。
 あの後、俺はどうしたんだったか―――。
 確か、アメリカに当たり散らして―――感情が昂ぶったせいなのか、強烈に気分が悪くなって頭痛や眩暈や吐き気がして―――気を失ったのだ。
 悪いことどころじゃない。最悪だ。
 アメリカはどれだけ俺に失望しているだろう。
 ああ、目を覚ますのが怖い。
 もう一生このまま気を失っていたい。
 無理だと分かっているけれど、そんなことを望んでしまった。
 まるで最悪なまでに酔って暴れた翌日のようだ。
 己の犯した失態に消えてしまいたくなるのと同じ。
 死にたい死にたい死にたい死にたい……。

 けれどこのままで居るわけにもいかない。
 こうして、くだらぬ思考がぐるぐるしているということはつまり、意識はほぼ戻っているのだ。
 どんな顔をしてアメリカに詫びればいいのかが分からず、このままで居たいと思っているだけで。
 
 ああ、けれど起きなければ。
 どれほど難しくとも、アメリカにちゃんと謝って。
 それから、プレゼントを今度こそ渡して―――いやもう受け取って貰えないかもしれないし、しつこいと怒られるかもしれないが―――受け取って貰えなかったら、今度は激昂したりせず、おとなしく持って帰って処分しよう。
 大事なことは、プレゼントなんかではないんだから。いや、俺にとってはプレゼントももの凄く大事だけれども。
 本当に大事なことは、アメリカを祝うことだ。
 起きたら、今度こそ言おう。ちゃんと、心から。
「おめでとう」
 と―――。

 例えこの想いの意味合いが変わっていようとも、変わりようのない根源の想いがあるから、大丈夫。
 この想いを押し隠しきるのは難しいかもしれないが、頑張ろう。
 プレゼントが駄目でも、せめてこの―――祝いたいという気持ちだけは、否定されないといい。

 生まれてくれて、嬉しい。
 出会えたことが、嬉しい。
 どんな形であれ、今を共に過ごせることが、嬉しい。

 あの時と同じように。
 いいや、あの時よりももっと強く思っているから。
 
『おめでとう』
 お前の誕生を、成長を、祝うことだけは、どうか許して欲しい。
 俺にだって、これくらいは許して欲しい。
 目を覚ましたら……今度こそ、素直に祝うから。
 長年の不義理を謝って……本当はずっと祝いたかったのだと告げて。
 ありったけの愛をこめて、心から、祝うから。
『好きだ』
 気づいてしまったら、バカの一つ覚えのように胸の裡で繰り返される言葉なんて、決して口にしないから。
 お前に迷惑をかける真似だけはしないと誓うから。
 もう、無理に気持ちを―――プレゼントを押しつけようともしないから、だから。
 お前に、心からの『おめでとう』を、笑って言いたい。
 誕生日というこの日。
 誰にでも許された祝福を告げる言葉のひと欠片を、どうか、どうか―――取り上げないでくれ。
  
 眦を伝う涙の熱い感触と、伝った跡に触れる空気の冷たさに、意識が呼び戻されていく。
 これ以上、暢気に寝ていられないようだった。
 掌に妙に安堵する温もりがあることを訝しく思いながら、俺は恐る恐るに瞼をゆっくりと開けた。
 






 目を開けて一番最初に目に入ったのは、見知らぬ天井だった。
 目を覚ますのが怖くてぐるぐると眠りの淵にしがみついていただけで、本当は随分前から覚醒の兆しはあったせいか、気を失う前の苦しさが嘘のようにすっきりと目と意識は覚めている。頭痛も吐き気も今は感じられない。
 体の下にある柔らかな感触はソファではなくベッドだろう。いま視界に映っている天井を見るだけでも、この部屋が随分と広いことが伺えた。
 天井に光はなく、窓があるのだろう片側と、その反対側の一部だけがぼんやりと明かりを得ている。片側を染める青白い光は恐らく窓からの月明かりで、反対側の小さな明かりはルームランプか何かだろうと思われた。
 広い室内を照らすにはささやかな照明と静けさ、体の下のベッドの感触から、恐らくここはアメリカの家の客間なのだろうと判断する。
 室内は静かだが、少し離れたところからは喧噪とまではいかなくとも人の賑やかさを感じさせる音の数々が聞こえてきていて、パーティーがまだ終わっていないだろうことを教えてくれた。
 倒れてからどれほどの時間が経ったかは分からないが、日付的にもアメリカの誕生日が終わってしまったわけではないらしい。
 それに安堵を覚えて、息をついた時――
「目が覚めたかい、イギリス?」
「っ!?」
 思わぬ声が思わぬ近くから聞こえて、俺はぎょっとしてそちらを向いた。
 横たわったまま顔だけそちらに向けた俺の視界には、アメリカの姿が映っている。
 ベッドの横に置いた椅子にでも座っているのだろう。こちらを見下ろすようにしてくる位置は、思ったよりも低い。
「アメリカ……ッ?」
 まさか目覚めてすぐ目の前にアメリカが居るなんて思わなくて心の準備も出来ていなかった俺は、必要以上に動揺して瞠目する。
「見ればわかるだろ。寝ぼけているのかい?」
 じっと見てもアメリカの姿が消えることはなく、これが幻でもなんでもないということを確認するに至って、俺は余計に慌ててしまった。
 だって、思わないだろう。
 アメリカからしたら俺は、訳の分からないことで突然怒りだして泣き出して喚きだして、挙げ句の果てに気を失ってしまった迷惑な客だ。招待したことを後悔していてもおかしくはない。
 それにパーティーはまだ終わってない様子だし、月の明るさからして俺が倒れてからそれなりに時間が経っている。ならば当然、アメリカはパーティーの席上にいなければおかしい。今日の主役は彼なのだから。
「なんでお前……ここに」
 呆然としたまま思わず口から零れた疑問に、アメリカが不愉快そうに眉を寄せた。
 それにちくりと胸は痛んだが、アメリカが不愉快になるのも当然だったから俺は痛みを飲み込んで、彼が何か言う前にと慌てて謝罪を口にする。
「わ、悪ぃっ!」
 一言で済ませるわけにはいかず、気を失う前からの非礼を詫びなければと続けようとした俺の口を、しかし鋭く放たれたアメリカの声が止めた。
「それ、何に対しての謝罪?」
 険のある声音に、ひやりとする。――怒っている。機嫌が悪いどころではなく、アメリカは怒っているようだった。
 理由など、心当たりがありすぎて何なのか分からない。どれが一番、彼を怒らせたのだろう。
 己の行動や言動を思い返してみれば、どれもこれもが彼を怒らせるに十分なものように思えた。
 咎めるようなアメリカの視線に竦みそうになる心と体を叱咤して、ゆっくりと上体を起こしていく。まさか横になったまま見上げる態勢で謝罪するわけにもいかない。
 体を支えようとベッドについた左手が右手に比べて妙に暖かく感じるのが不思議だったが、それどころじゃないので意識の端から追いだして、僅かばかりアメリカの方へと体を向けた。
 視線を合わせることは難しくて顔を俯けたままになってしまったし、何を言えば怒りが解けるのか欠片も分からなくて気が重かったけれど、どうにか口を開く。
「さっき……いきなり取り乱して、わけわかんねーこと言っちまったことと、気ぃ失っちまったことと、その後に面倒かけちまったことと……」
 ひとつひとつ上げていくが、アメリカは胸の前で腕を組んだ姿勢のままで、伝わる気配も張りつめたまま。
 顔を見ることなんてとても出来ないばかりか、軟化も望めない様子に視線はいっそう下に下がっていった。
「プレゼント、押しつけようとした、こと」
 再び蘇る痛みを無視する。涙なら、夢の中で流した。責める資格もないくせに、アメリカを詰りながらも流してしまった。だから今、泣くわけにはいかなかった。
 それから……あとひとつ。本当に謝らなければならないのは、多分こちらだ。
 好きになってしまったこと。
 謝罪としてさえ口に出せない分、心の中で何度となく謝る。
 思いつく限りに並べ立てた後は、判決を待つ被告人のような気分で俺はじっとしていた。
 他にもっとあっただろうかと不安なまま必死に思い返していると、腕を組んだままのアメリカがわざとらしい程に深々とした溜息をついて――
「君は実にバカだな」
 言ってきた。
「なッ!?」
 人が素直に謝ってるってのにそれはないだろう。
 あまりな言い様につい顔をあげて睨み付ければ、正面近くに座るアメリカの視線とぶつかった。
 強く睨んでやりたいのに、膨れ上がった感情に押されてか目にじわりと涙が滲んでしまって嫌になる。 
 そのせいかどうかは分からないが、呆れ果てたと言いたげな表情をしていたアメリカの表情がフッと緩んで柔らかな――まるで慈しむような、微笑になった。
「……っ」
 思わず息を飲む。こんなアメリカの微笑、初めて見た――。
 大人になってからは勿論だが、俺に惜しげもなく笑顔を向けてくれた子供の時だって、こんな笑みは見たことがない。
 あまりに綺麗な笑みにポカンと見惚れてしまっていると、アメリカの手が躊躇いもなく極自然な様子で伸びてきて、指でそうっと眦を拭われる。
 あ、れ――?
 ひょっとして、今、アメリカが、俺の、涙拭った、のか――?
 驚きに滲んでいた涙が止まった俺は、手を伸ばしてきた為か距離の近くなったアメリカの顔を、真抜けた顔で凝視するしかない。
 そうしたら、あまりにも俺の顔が間抜けだったのだろうか。
 アメリカの笑みが柔らかなものから、面白がるようなものに変わり、更には吹き出した。
「プレゼントは俺が持って来いって言ったし、迷惑なんて、あんなもの迷惑の内に入らないさ。普段、君が酔って暴れてる方がよっぽど迷惑なんだぞ!」
 挙げ句の果てに、こんなことを言ってくる。
 迷惑じゃないと言われても、そんなものと比較されたんじゃ、素直に喜べるわけねーだろ!
「う、うるせぇっ、どうせ俺は酒癖悪ぃよ!」
 腹いせに手元にあった枕を掴んでアメリカに投げつけてやるが、堪えた様子はかけらもなくて余裕で受け止めると面白そうに笑っている。
 くそう、やっぱり今日のアメリカはワケがわからねぇ。不機嫌になったり怒ったり、かと思えば急に珍しい顔で笑ったり……。
 人がせっかく、きちんと謝ろうとしたってのに。台無しどころか更に悪化だ。枕なんて投げてしまった。
 だけどアメリカの言葉は……腹は立つけれど、つまり謝る必要はないってことだろうか。それとも謝るポイントがズレてるって話か?
 さっきは確かに怒っていたのだから、後者の可能性が高い。
 ただそうすると――俺にはアメリカが何で怒ったのかさっぱり分からないことになる。
 謝罪もアメリカの怒りも、なんだか有耶無耶になってしまったような状況で、怒った顔のままでいいのか、もう一度謝罪し直すべきか、俺はどういった顔をすればいいのか分からないでいると、またアメリカが俺を混乱させる言葉を投げてきたのだった。
「でも、嫌いじゃないんだぞ」
「はぁ?」
 嫌いじゃないって、何が。
 真抜けた声と共にまたポカンと見上げてしまえば、アメリカはやっぱり面白げに吹き出す。
「俺は君のことを心底迷惑だなーと思うこともしょっちゅうだけど、君に迷惑をかけられるのが、嫌いじゃないってことさ」
 軽い口調で告げられ、アメリカが良くやるように、頬にさっくりと指をさされた。
 痛いというほど痛いわけでもないが、爪が食い込むので心地良い物ではない。
 普段なら止めろと言うところだけれど、アメリカの言葉が頭の中をぐるぐると回っていてそれどころじゃなかった。
 物凄く失礼で酷いことを言われた気がするのだが、これは怒ってもいいところだろうか。
 それとも、嫌いじゃないと言うのなら、前半は無視すべきなのか?
 早々聞き流せない程度には酷いと思うのだが、確かに今、俺の中のどこを探してもアメリカに対しての怒りは湧いてきていない。
 じゃあどんな気分かと言われると凄く困るが。
 心底迷惑だと思うけど、でも嫌いじゃない?
「……変な奴だな」
 率直な意見を俺は口にした。
 そうしたら、アメリカは少しだけ口を引き結んでムッとした顔になると、また人の頬をサクサクとつついくる。
「じゃあ、君はどうなんだい?」
「は?」
 問いかけの趣旨が掴めずに疑問を音にすれば、アメリカは表情はそのままながらも少しだけ迷う風情を見せてから、言い直してきた。
「君だって、俺のことに文句言ってくるじゃないか。君は、俺のこと……迷惑だって思ってる?」
 今度は、俺にも分かりやすい言葉で。
 ……俺が、アメリカを、迷惑に?
 問われた意味を脳が理解した途端、意識するより先に口は言葉紡いでいた。
「そんなわけねぇだろ」
 自分でも意外なほど強い口調で否定する。
 そうしたらアメリカの口元が少しだけ緩んで、頬を刺していた指が離されて――代わりに、片頬を包むようにして掌が添えられた。
「……っ?」
「だよね」
 からかうようなものとは違う接触に俺は狼狽えるけれど、目を僅かに細めて先程のように表情を柔らかくしたアメリカに何も言えなくなる。
「さっきのは、迷惑なんかじゃないよ。心配はしたけどね」
 添えられた手の親指が頬を撫でてくるのも気になったが、《心配》の言葉が更にアメリカと馴染まなくて、俺はやはり間抜けな顔のままアメリカを見上げるしかない。
 心配? アメリカが? 俺を?
 そんな馬鹿な。
 アメリカに心配されたことなんて、こいつが子供だった頃を除けば一、二度くらいのものだ。
 その時だって、俺が死にそうだったから心配してくれたのかと思いきや、最後の願いは「やーなっこった☆」とあっさり却下されたり、くたばった後に祝おうとしたりしやがったのだ。
 アメリカが俺を心配するなんて、そんなの俺の夢の中以外有り得ないと思う。
「君の部下に聞いたぞ。君、ずっと具合悪かったんだって?」
「……っ」
 けれど続けられた内容に、否定の言葉を飲み込まされた。
 何でアメリカにそんなことを言ってしまったのかと部下を恨みそうになるのを、どうにか堪える。最低だ……。彼らの失態ではない。誰の失態かと言えば、倒れたりなんかした俺の失態に他ならない。
 俺の部下に限らず他の国の付き添いや部下達も、この屋敷の別棟で待機していた筈だ。俺が倒れたなら関係者である彼らが呼ばれるのは当然だし、そこで最近の健康状態を彼らに問うのも当たり前と言える。もし俺がアメリカの立場だっとしても、同じことをしただろう。
 ああ、だけど……知られてしまった。
 パーティーの最中もアメリカの態度がらしくなかったから、ひょっとしたら気づかれているだろうかと思ってはいたが……誤魔化しようもなく知られてしまったのか。今年もまた懲りずに体調を崩していたことを。
 事実だけれど、出来ればアメリカには知られたくなかった。今年だけは。
 このことが知れれば、ここへ来てアメリカを祝おうとする気持ちの全部が単なる表向きで、本当はアメリカを祝う気などないのだと思われそうで嫌だったのだ。
「別に大したことない。あいつら、心配性なんだ」
 なんとか笑みらしきものを浮かべて言ってみるが、アメリカは欠片も信じてないって目をして見下ろしてくる。
「大したことない? 一週間くらい前から全然食べないし寝れてないし顔色も悪いし、本当なら来させたくなかった、って文句言われたんだぞ、俺」
「う……」
 あいつら……そんなことまで言ったのか。
 よりによってパーティーの主催者に『来させたくなかった』とは……。
 かなり俺のことを心配してくれていた彼らには悪いが、少なくともそれを主催者本人に言うのは無しだろう。
「悪ぃ。後で、そういうことは他国相手に言うことじゃねぇって言っておく」
 部下の非礼は俺の非礼だ。俺は素直にアメリカに詫びた。
 だと言うのに、アメリカは余計に不機嫌そうな表情になってしまった顔を俺に近づけてきて、頬に添えていた手を今度は耳へと滑らせると、耳たぶを摘んで横へと引っ張る。
「い、いでででででっ。何すんだ!」
「君が俺の話をちゃんと聞かないからだよ」
「お前に言われたくねぇよ!」
 普段の生活や会議では、人の話を聞かない筆頭はアメリカなのだ。もっとも、世界会議の面子は人の話を聞かないヤツばかりと言えばそうなのだが。
 けれど今回ばかりは、アメリカの言葉は正しかったと言える。
 いつものように言い返した俺に、アメリカは更に反論をしてくることはなくて。耳を引っ張っていた手を離すと、深い溜息と共に呆れた声を落としてきた。
「心配した、って言っただろ」
「……」
 あ。
 そんなこと、有り得るわけないと否定しようとした言葉。
 話を聞かないと断じられた理由としてソレを挙げられれば、アメリカが俺を心配していたのが事実なのだと、ようやく俺にも理解が出来た。
 ……てことは。
 そんなアメリカに対して俺が『大したことない』なんて嘘をついたのがそもそも悪い、のか。
 部下に言われた言葉を言ったのは、俺の嘘を突きつける為であって、部下の言葉に対して俺から謝罪が欲しかったわけじゃないってことにも、ようやく気づいた。
「朝から、あんまり顔色良くなかったし。酒好きの君が酒も飲まないし。挙げ句に倒れて、部下からあんな話聞かされたんだ。心配して当然じゃないか」
 本当に……アメリカが俺の心配してくれたのか……?
 ここまで言われれば、俺とて流石に信じないわけにはいかない。
 だけどやっぱり現実のこととは思われなくて、アメリカの顔をじろじろと眺め回してしまった。
 その俺の態度が不満なのか、アメリカが口を尖らせる。
「なんだよ。俺が君を心配するのはおかしいかい?」
「そんなことは……ねぇけど。意外とは、思う」
 意外どころか、奇跡だ。
 あのアメリカが、俺を、心配……。
 信じがたいが、どうやら本当らしい。
 なかなか実感が湧かなかったが、そうして確認すればじわじわと今更のように喜びが広がっていく。
「そっか。心配、してくれてたのか……。ありがとうな、アメリカ」
 アメリカが俺を心配してくれた。
 その事実が染みこんでいけば自然と笑みが浮かんできて、俺は今度こそ素直に礼を言うことが出来た。
 ようやく睨む以外で真っ直ぐにアメリカを見れたなと、ついでに些細な喜びも味わっていた俺だったのだが、アメリカの視線が途中で躊躇うように逸らされる。
 らしくない態度を疑問に思っていると、呟くような声でアメリカが言った。
「うん。……だからさ、嘘なんだよ」
「嘘……?」
 何が。もしかして、今の《心配してた》っていうのが?
 嫌な想像に、体温が下がる。
 そんな俺の様子に気づいたのか、アメリカが慌てたように続きを口にした。
「君が酔って暴れたら困るからって、言ったの」
 何のことだか、すぐには理解できなかった。
 俺が酔って暴れると困るってのが嘘?
 さっき、迷惑だと言っていたことだろうか。それとも、迷惑だけど嫌いじゃないと言った方だろうか。
 どういうことか分からずにアメリカに目だけで問えば、ばつが悪そうな顔でぽつりぽつりと告げてくる。
「本当は君の体調が良くないのなんか、朝から分かってた。今日はお酒飲めないんだろうなってことも。だから、君が今日酔って暴れるなんて欠片も思ってなかった」
 そこまで言われて、ようやくもう一つの可能性を思い出した。
 手を引かれたままバルコニーについて。握られたままの手が嬉しいけれど居たたまれなくて、アメリカが好きなことがバレやしないかと怖くて、離してくれと頼んだ俺にアメリカが言ったのが、そんなようなものだった気がする。
『君なんかを野放しにしたら、どうせ酒飲んで酔っぱらって大暴れするだろ。俺の誕生日にそんな悪事は許せないからね!』
 アレが嘘、ということだろうか。まさか。
「なんでそんな嘘」
 思いがそのまま、言葉となって零れてた。
 問うという程でもなく、ただひたすらに不思議でしょうがない。だってそんな嘘をつく理由なんて、どこにもないだろう。
 繋がれていた手を、離してくれと頼んだ。本心だけど本心じゃない言葉に返った否定。当たり前のような理由が嘘だと言うのなら。
 繋ぐ必要などない手を、離さなかった理由は何だ?
 自分にはあった。離してくれと言ったけれど、本当の本当は離したくなかった自分には。好きだから、触れ合えることは嬉しくて離したくなかった。けれど、アメリカには、そんなものはない。
 どうにも分からなくて見上げるだけの俺の視線の先で、アメリカは迷っているように見える。
 口が何度か、何かを言い掛けて止めること繰り返して。
 手の置き場所に困ったように彷徨わせて。
 何がアメリカを迷わせているのか、戸惑わせているのか――怖がらせているのか、俺には分からない。
 アメリカは何かに迷う風だったが、それは迷うというよりは――何かに怖がって、怯えて、躊躇っていると言った方が近いように見えた。
 どうしたと言うのだろう。
 いつも無駄と言い切れる程に自信に溢れて己の道を突き進む彼のこんな様子は珍しい。
 苦しそうにさえ見えて、俺は思わず『無理しなくていい』と言ってやりたくなった。
 けれど俺が口を開く寸前、アメリカへとのばしかけていた手を、当のアメリカの手が掴む。
 同時、逸らされていた目が、真っ直ぐに俺を射抜いてきた。
「決まってる」
 アメリカの唇の動きが、嫌にハッキリと目に映る。
「君の手を、離したくなかったからだよ」




 一音一音が、目に、脳に、焼き付けられる。
 ――何を、言われた?
 口の動きはハッキリと焼き付いて理解できている筈なのに、意味が入ってこない。
 アメリカは何と言った?
 手を離さなかった理由。
 離さない理由に嘘をついた、その理由。
 射抜くようなアメリカの目から逃げるように視線を無理矢理引きはがし、強い力で掴まれた手を見つめた。
 手。
 繋がれた手。
 嘘をついたという、その時のように。
 離してくれと頼んで。けれど離したくないと本当は思っていた手は、再び己の手と共にある。
 痛いほどに掴まれたそこから、強さに相応しいだけアメリカの温度が伝わってきた。
 離したくなかった。
 俺には、その理由があった。離して欲しいと思う理由も、離して欲しくない理由も。
 アメリカは、離したくなかったと言った。だから嘘をついたのだと。
 ……ならば、それは、どうして。
 離したくないと思う理由は、何だ。
 思いつかない。何も。

 ――そんなのは、嘘で。

 他の可能性を考える余裕もなく、ただひとつの予想が……否、願望が脳裏を巡り埋め尽くしている。
 まさか、そんな、あり得るわけない。と、思うけれど。
 手を離したくなくて嘘をついたと言ったアメリカの、声にこめられた真剣さが。
 言葉にする前の躊躇いが、迷いが、怯えが。俺の手を掴む強さが。
 掌は強く握ってくる一方で、触れることへの躊躇いを示すように僅かに緩められた指先が。
 否定し逃げる思考へ行くことを許すまいとするかのような、強く射抜いてくる視線が。
 俺が望んだのと同じ《理由》なのだと言っているような錯覚を起こさせるのだ。
 そんなわけがない、と言い聞かせようとするけれど勝手に頬に熱がたまっていく。
 駄目だ。止めないと。
 勝手に有り得ない期待に熱くなる顔を誤魔化したくて、何より願望に向けて走り出して止まらない思考を振り払いたくて、アメリカに掴まれた手を解こうとするけれど、やはり簡単に外れてはくれなかった。それどころか、躊躇いを残していた指先までが、ぎゅっとこちらの手を跡がつきそうなくらい強く握りこんでくる。
 なんで。なんなんだ。アメリカが、何を考えているのか分からない。
 解こうとしても解けない手に、アメリカの言葉がくるくると脳裏を回った。
『離したくなかったから』
 離したくない。俺だって離したくないと思っていた。
 嘘の理由の、その理由が。同じじゃないと思うけれど同じだと錯覚しそうになるから、駄目だ。
 しかし、誰にともなく助けを求めたいような気持ちでいる俺の耳に次に聞こえてきたのは、俺よりよっぽど助けが必要なんじゃないかと思われる、アメリカには似合わない弱気な声。
「君のプレゼントを受け取らなかったのもね」
 プレゼント、の単語に無意識の内にびくりと肩が跳ねた。
 ずっと渡したくて持っていたもの。『今はいい』と、受け取って貰えなかったもの。
 プレゼントのことになると、もう俺には悪い想像しか出来なくなっていて、アメリカの言葉の先など聞きたくないと思って、耳を塞ぎたかったけれど片手はアメリカに掴まれたままで、それも適わない。
「受け取りたくなかったわけじゃないよ」
 塞ぐことの適わなかった耳に落とされるのは悪い予想のどれとも違うもので。
 けれどまだ喉元に固まっている不安は溶けなくて、アメリカの顔を見ることが出来ない。
「君、去年来た時、プレゼント渡したらさっさと帰っちゃっただろ」
 拗ねた声で続けられたのは、去年の今日の話だった。
 去年――初めてアメリカの誕生日にちゃんとプレゼントを渡すことの出来た記念すべき日。
 かなりの苦労をして辿り着いた俺は、確かにプレゼントを渡すのが精一杯で、すぐに帰ってしまったけれど、それと会話の流れが結びつかない。
「だから今年も……俺がプレゼントを受け取ったら、もう用は済んだとばかりに帰っちゃうんじゃないかと思ったんだよ」
 アメリカの行動原理はとても分かりやすいと思っていた俺だったが、今は物凄く不可解に感じる。
 受け取りたくないわけじゃないけれど、プレゼントを受け取らなかった理由は、受け取ったら、俺が早く帰ってしまうと思ったから。
 アメリカはそう言っているように聞こえる。
 言葉を理解した思考はそのまま流れるように意味を弾き出した。
 それはつまり。帰って欲しくない、という意味の言葉ではないのか、と。
 まさか、と予想を打ち消す声も頭の隅にはあった。
 けれどひとつでなく、いくつものアメリカの言葉が、態度が、それを指し示していれば、頑なに否定を探す臆病な心も解けていく。
 こんなのはただの俺の思いこみで願望なんじゃないかという疑いが解かされそうになる。
 厭われていたわけではないのか。受け取りたくなかったわけではないのか、という安堵。
 そこに込められた意味がなんであれ、存在を願われていた、という喜び。
 安堵と喜びと期待と、それから僅かな不安が混ざりあって胸の内に染み渡り、微かに体が震えた。
 本当に……?
「本当に、それだけか……?」
 厭う意味などなく、引き留める意味で受けとらなかったのだと信じていいのか?
 微かに残る不安の最後のひとかけらを拭い去るために念を押すように口にした疑問とも言えぬ言葉に返ったのは、拗ねたような声だった。
「それだけだよ!」
 口を尖らせるアメリカに戸惑いを覚えて首を傾げる。ひょっとしてアメリカには別の意味で聞こえてしまったのかもしれない。思ったけれど、口を挟む前に非難の色を込めた目で続けられ、誤解を解くタイミングを見失った。
「俺にとっては重大なことだけどね! 初めて君が俺の誕生日にちゃんと参加してくれたんだ。帰らないで、ずっと居て欲しいと思うのは当然じゃないか!」
 その上、こんなことを言われてしまったら、頭から全てのことが吹き飛んだとしてもおかしくない。誤解を解くどころじゃない。
 待ってくれ。
 確かにアメリカの言葉を態度を嬉しいと思った。厭われてなかったんじゃないんだと期待した。
 ひとつだけでなく与えられる希望を、信じられるかもしれないと思いもした。
 だけどこれは、こんなのは……いくらなんでも有り得ない。
「……お前、夢か?」
「はぁ?」
 真剣な声音で言った俺の言葉に、アメリカの俺を見る目が、胡散臭いものを見る目に変わる。
 何を言い出したのか分からない。
 そんな顔だと思ったが、俺も多分、同じ顔をしていると思う。
 だって、有り得ないだろう。誰だこれ。こんなアメリカ、あるわけない。
「これ、俺の夢だろ。だからそんな都合のいいこと言うんだろ」
「……意味がわからないんだけど」
 意味も何も、そのままを口にしているだけだ。
 アメリカの言葉が嬉しくなかったわけではない。
『帰らないで、ずっと居て欲しい』
 そんな風に思われていたなんて、嬉しいに決まってる。
 だけど許容量を超えた嬉しさには、流石に目も覚めるというものだ。
 どれだけ嬉しくて現実味に溢れてる夢でも、ここまで来ると気づいてしまうものなのだと妙に冷静な思考の隅で思う。
「俺、やっぱりまだ寝てるんだろ。これ夢だよな?」
 きっと俺はあの時倒れてから目が覚めておらず、未だに夢の中なのだろう。
 いや、ひょっとしたらそもそも俺は自宅から一歩も出ていないのかもしれなかった。
 アメリカの誕生日パーティーに参加したことすら夢で、意識が混濁するほど体調を崩し、本当は自宅のベッドでうなされている真っ最中なのかもしれない。
 そう考えれば、時折へこむことがあったとは言え、今日のアメリカがおかしかったことも頷ける。
 ましてや『帰らないで、ずっと居て欲しいと思うのは当然』なんてアメリカが言うなんて。夢だとしたって信じられない。
 信じられないのはアメリカそのものが、と言うよりは、そこまで図々しいことを密かに望んでたらしい自分自身だが。
 アメリカの優しい態度も今までのことも全部が夢だと思うと寂しくも悲しくもあるが、己の失態も消えるかもしれないとなれば、それも仕方ないかと思える。
 そもそも手にすることのない幸福だったのだ。束の間の夢だけでも、充分癒された。
 ありがとうな、アメリカ。夢でも楽しかったぜ。
 ようやく事態に納得がいって安堵し、そう礼でも言おうかと思ったのだが――
「ちょっと、君ねぇっ。夢じゃないよ。少なくとも俺は起きてるし意識も正常だよ!」
 アメリカが突然、俺の肩を掴んでぐらぐらと強く揺さぶってきた。
 おいおい、やめろよ。せっかく貴重な良い夢なのに醒めたらどうしてくれるんだ。
 文句を言おうと思ったが、間も開けずに続けられたアメリカの言葉にまた阻まれてしまう。
「いきなりそんなこと言い出す君が正気かどうかは、たった今疑わしくなったけどね!」
「えっ。てことは俺の頭がおかしくなって見てる幻とかなんかか!?」
 それは夢よりヤバイな。
 夢なら現実に影響することもないし、後腐れもないから俺の失態も帳消しになって少し幸せな気分に浸れただけで済むのだが、これが幻覚となるとそうもいかない。
 この場所、時間、アメリカ、俺、景色、記憶。どこまでが現実で、どこまでが幻覚なのかが問題になってくる。
 何もない空間で妖精に幻覚を見せられているだけならいいが、実は目の前のアメリカが全然別の人物で、アメリカに見えているだけだとしたら、大問題だ。
 しかし幻覚だけでは、ここまでリアルな質感は出せないだろう。アメリカの手触りも体温も何もかも、幻覚とするには生々しすぎるし、知らぬ感覚を再現することは夢でも幻覚でも難しい筈だ。
 と、いうことは、このアメリカは本物で、ただ言葉や態度に多少補正がかかっているようなものなのだろうか?
 などと人が真剣に考えこんでいると、また強く肩を揺さぶられ、更には特大の呆れた溜息が吐かれた。
「君ねぇ。勝手に人を幻にしないでくれよ。君の見えないお友達じゃないんだからさ」
「なっ。あいつらは本当に居るんだぞ。幻と同じにするな!」
 反射で答えてしまってから、やっぱりこのアメリカは本物のアメリカなのかもしれないとも思う。
 俺の幻覚や夢だと言うのなら、妖精達を肯定はしないにしろ、ここまで否定もしないだろう。
「……それ、俺よりも君の見えない友達の方が信じられるって話?」
 そして、アメリカにこんな風に言われてしまえば、もし本当に夢や幻覚だったとしたって応とは答えられなかった。
「そういうわけじゃねーけど……。アメリカがそんな、俺に居て欲しいとか、言うわけないだろ……」
 夢の中にしたって、言いそうにない。
 アメリカが俺に言うことなんて、ある程度決まっていて。
『ああ、居たのかいイギリス?』
 なんて、存在を認識されてないか。
『辛気くさい君の顔をいつまでも見てるのは御免だからね! とっとと仕事を終わらせようじゃないか!』
 たまに顔を合わせれば、さっさとこんな時間を終わらせようという態度だし。
『君がそんなに言うなら、付き合ってあげないこともないぞ。何しろ俺はヒーローだからね! 寂しい君にちょっとだけ付き合ってあげるのも責任の内さ!』
 極稀に、仕事の後の時間を共に過ごせたとしたって、奴独特の義務感だとかそんなものばかりじゃないか。
 いくつかの思い出が蘇ってきて軽くへこむ。
 いつだってアメリカは俺が共に居ることを疎んでいたじゃないか。
 なのにどうして、『居て欲しい』なんて言うアメリカがこの世に存在すると思えるというんだ。
 思い出しせば苛立ちさえ募ってきて、ぎろりとアメリカを睨みあげる。
 そうだ、俺は悪くない。絶対にこれは幻覚だ。俺の方が正しい。
 だと言うのにアメリカは心外そうな顔を崩さず、忌々しげに舌打ちをすると、ぐいと俺の手を掴んでいた手を強く引っ張る。
「君がどう思ってるか知らないけどね、俺はずっと君と誕生日が過ごしたいと思ってたよ。君、俺がどれだけ今日みたいな日を望んでたか知らないから、そんなことが言えるんだよ!」






「な……っ!?」
 なんだって――?
 俺は身体ごと引っ張られかけていたのを力をこめて止め、態勢が崩れるのを防いだ。
 どれだけこの日を望んでたか?
 そんなの、俺だって同じだ。
 毎年毎年届けられる招待状。
 振り払っても振り払っても拭えなかったのは罪悪感のように纏い付く何か。そしてそれ以上の過去という痛み。
 決してそんな日は来ないんだろうと思いながら。
 それでも……いつか、いつかこんな日が来たらと願っていないわけはなかったのに!
 今日という日に限ったことにしたって、どれだけ俺が……!
 アメリカの表情ひとつ。些細な行動のひとつひとつに振り回されてたか、知りもしないくせに。
 そうだよ。
「お前だって、俺がどれだけ今日を楽しみにしてたか知らないから、あんな嘘つけるんだ!」
 嘘だと、言った。
 酒飲んで暴れると思ったなんて、嘘だと。
 プレゼントを受け取らなかった理由のどれも、嘘だったと。
 本当に嘘だと言うなら、それは良かった。安堵した。喜びさえした。
 だけど、あの時は確かに傷ついたのだ。
 どうしようもなく悲しくて、辛かった。
 俺にはアメリカを祝う資格なんてないのだと、言われているようで。
 こんなに、楽しみにしてたのに。
 こんなに、祝いたいと思っていたのに。
 アメリカにはやはり伝わらなくて、結局は俺がアメリカに向ける思いなんて、祝いであってすら迷惑なんだと。
 あの時感じた痛みが自然と思い出されて、駄目だと思うのに涙が滲む。
 ああ、俺は今日、どれだけ泣けば気が済むんだ。もう泣いたりしないと決めたのに。
 睨みあげた視線を逸らしてしまえばアメリカの言い分だけを認めることになりそうで、逸らせない。
 俺は喉の奥に力をこめるようにして涙がこれ以上でないように祈るしかなかったが、視線の先でアメリカが不意に表情を崩して眦を下げ――
「ごめん」
 小さく、けれどもハッキリと聞こえる声で、言った。
「え……?」
 まさかそこで謝られるとは思わず、俺は呆気にとられてしまう。
 アメリカは俺の手を握った力を緩めることはなかったが、かわりにそっと包み込む柔らかさでもう片方の掌が繋がれた二人の手に重ねられて、余計に戸惑った。
「嘘ついてごめん。……素直に言っても聞いて貰えないと思ったんだよ」
 もう一度、重ねられる謝罪。
 アメリカの両手に包まれるようになった手に、祈るような形でアメリカの額が当てられる。
「君を傷つけるつもりはなかったんだ。ただ君と一緒に誕生日を過ごしたかった。出来るだけ長く一緒に居て、祝って欲しかった。君にこそ、祝って欲しいって、ずっと思ってた」
 懺悔にも似た仕草に、不謹慎だがやっぱりこのアメリカは夢か幻なんじゃないかと思ってしまった。
 だって、有り得ない。
 俺に、祝って欲しいと。
 俺にこそ、祝って欲しいと。
 そんな……俺が特別のような物言いをするアメリカなんて。
 包み込まれた手が震えるけれど、震えごと包まれてくるまれる暖かさに、夢だ幻だと繰り返す言葉が虚しく解けていく。
「君が俺の誕生日が今日だってことに傷ついてるのも知ってた。君は怒るかもしれないけど、知ってて、ずっと俺は望んでたよ。いつか君が俺の誕生日を祝いに来てくれる日が来ればいいのにって。だから今日は、凄く凄く嬉しかったんだ。君が来てくれて。辛そうでもつまらなさそうでもなく、楽しそうにしてくれて。俺に笑いかけてくれて。それこそ、夢かと思うほどにね。奇跡みたいだと思った」
 包み込まれた手に触れた睫毛の感触で、アメリカが目を閉じたことを知った。
 目を閉じて、握った手に額をあてて。
 懺悔のように。
 何かに祈るように紡がれる言葉は、アメリカらしくなく落ち着いた、穏やかな声音。
 だというのに、分かる。分かってしまう。何故だか。
 胸が引き絞られるほどに強い何かが、そこには込められているのだと。
「……アメリカ……」
 気がつけば、彼の名を口にしていた。
 もう、夢だとも幻だとも思わなかった。思えなかった。
 握られた掌から伝わる暖かさを誤魔化せないのもある。
 けれど何よりも……縋るような声と、そこに込められた《願い》の色を認めてしまえば、どうしたって自分には逃げようがない。誤魔化しようがない。
 例え夢でも幻でも、それがアメリカならば。
 そして彼が自分に望むものがあるのならば、それを否定することなど出来るわけもなかった。
「イギリス」
 緩く首を横に振る仕草の後、アメリカが顔を上げ、イギリスを真っ直ぐに見つめてくる。
 小さなアメリカに始めて会った時に見た空の色が、そこにはあった。
 時を経ても、テキサスに隠されても、揺るぎなく在り続ける色。
 イギリスが、世界で一番美しいと思っている色が――。
 常に高見を見据える曇りなき空色の瞳はしかし、今イギリスの視線と絡み合って僅かに揺れている。
 いつも自分は彼の気持ちを読み間違えてしまうけれど、これだけは見間違えることはないだろうと自信を持って言えた。
 滅多に向けられぬからこそ、鮮烈に覚えているし、忘れない。
 常に求め続けていた色と揺らぎであれば、見間違えることなど有り得ない。
 期待と不安を抱えながらも、この瞳が強く訴えてくるものは紛れもなく《願い》だった。
 バカだな、アメリカ。
 お前が願うなら、俺が叶えようとしないわけがない。
 不安に思うことなど、何もない。
 お前は俺に、願っていい。願いすらせず、望みを口にするだけでいい。
 自分たちは《国》という立場である為に自由になることは少ないけれど、だからこそ。
 そこから離れた一個人としてならば、アメリカの望むこと全てを叶えてやりたいと思っている。
 それは、小さな子供だったアメリカに対する親としての感情とは、少しばかり異なるものだった。
 よく似ているけど、もっと利己的なものだった。
 無償とは言えない。純粋なものでは決してない。
 それどころか、酷く利己的で欲に塗れた不純な願望。
 お前の望みを全て叶えてやりたい。
 お前の望みを、叶えられる俺でありたい。
 お前の望むものを叶えられるのは俺だけでありたい。
 そうして、お前が願う先が望む先が全て俺であればいい。
 叶えた望みに向けられる感謝も笑顔も、全て俺のものであればいい。
 かつて抱いていた筈の純粋な願いは最早、こんな酷く身勝手なものに変わり果ててしまったけれど。
 お前の願うことならば、どんなことでも俺は叶えるよ。
 身勝手すぎる思いを口に出来ない分、俺は小さく頷いてみせてアメリカの言葉を促した。
「俺を……」
 けれどアメリカの願いは。
「祝ってくれるかい?」
 あまりにも、ささやかで。
 俺は、泣きたくなった。
『祝ってくれるかい?』
 バカだな、アメリカ。
 何を言ってるんだ。
 俺が、どうしてここに居ると思ってんだ。
 眠れないし食べれないし目眩はするし気分が最悪だっていうのに、這うようにしてここに来たのは、なんの為だと思ってる。
 プレゼントを受け取ってくれないからといって、八つ当たりみたいにしたのは、なんでだと思ってる。
 どれほど楽しみにしてたか知らないくせに、と言われて腹を立てて泣きそうになったのは、なんでだと思ってる。
「ああ」
 そんなの全部、お前を祝う為に決まってるじゃないか。
 このバカメリカ。
 胸中で呟く言葉は全て文句のようだったけれど、反比例するように埋め尽くしていく感情は喜びで。
 包まれていた手をそっと引けば、逆らわずに縋るように身を寄せてきたアメリカの頬へと、空いている手を伸ばして頬に添えた。
 さっきと、まるで逆だな。
 そんなことを思いながら。
「当たり前だ。お前を、祝わないわけがない」
 バカだな。
 胸中で繰り返す、素直なようで裏腹なんだろう言葉のかわりに、俺はめいっぱいの思いをこめて微笑んで。
「誕生日おめでとう、アメリカ」

 ずっと言いたかった。
 きっと、二百と三十年以上前から言いたかった言葉を、ようやく口にする。
 おめでとう。
 そして……ありがとう。
 お前が生まれてくれたことを、祝うよ。
 そして、お前が生まれてくれたことに、感謝する。

 生まれてくれて、嬉しい。
 出会えたことが、嬉しい。
 今を共に過ごせることが、嬉しい。

 おめでとう。
 おめでとう。
 ありがとう。

 全ての思いをこめて言えば、俺も泣きそうだったけれど、アメリカも泣きそうな顔をして笑っていた。
 アメリカは俺の手を包み込んでいた片方を離して、代わりに頬へと添えていた手へと重ね、頬摺りする。
「ありがとう、イギリス……」
 気恥ずかしくはあったけれど、アメリカが嬉しそうなのが嬉しくて、止める気にも払う気にもならなかった。
 ああ、どうしてくれよう。
『おめでとう』では、とても足りない。
『ありがとう』でも、まだ足りない。
 アメリカが、好きだ。
 アメリカが愛しい。
 伝えられないけれど、伝えられたいいと思う。
 こんなにも、こんなにも、お前が好きだ。

 伝えたい。
 思う心が伝わったわけではないだろうが、アメリカが互いの手をそれぞれ指を絡めるように握ってきて、引き寄せてくる。
 先程俺が引き寄せたこともあって互いの距離が殆どゼロに近くなると、アメリカは甘えるようにして俺の額へ己の額を重ねてきた。
「イギリス」
 そうして、真剣な声で名前を呼ぶ。
「……俺の話を、聞いてくれるかい?」
 願うよりも強い何かを感じて、肩が僅かに揺れる。
 けれど俺の答えなど決まり切っている。
「ああ」
 絡められ繋がれた手をぎゅっと俺から握り返し、俺は同じくらい真剣な気持ちで頷いた。

吐息さえも触れあいそうな距離と真剣な声音に、自然と緊張が走る。
 けれど例えこの先に告げられるものが俺にとって残酷なものだったとしても――決して後悔はしないだろうと、思えていた。




「いつか君が、この日を心から祝ってくれる日が来たら……言おうって決めてたことがあるんだ」
 アメリカの声は緊張しているようだが、穏やかなものだった。
 だから、その宣言のような言葉も比較的落ち着いて聞くことが出来たと思う。
 アメリカが俺に、言いたいこと……?
 アメリカの誕生日を。彼が独立した日を、俺が祝うことが出来たら、と決めていた言葉。
 それはなんだろう。
 恨み言だろうかと、いつもの俺ならば思っただろう。
 けれど今は、そうは思えなかった。
 俺とアメリカの間にある雰囲気が、緊張は孕んでいてもいつになく暖かなものなせいかもしれない。
「イギリス、俺はね……君を嫌いになれたことなんて、一度もないんだよ」
 そうして告げられた内容は、俺の予想を裏切らないものであり、一方で裏切るもの。
 恨み言なんかじゃ、やっぱりなかった。
 でも……ここまではっきり嫌いじゃないと言ってくれるとは思わなくて、身構えていた身体の緊張が緩む。
 アメリカの話はここで終わりじゃないのは、なんとなく分かっていた。むしろ本題はここからなんだろうとも。
 それでも、アメリカに嫌われていなかったのだという、ささやかな事実は俺を油断させて。
「今日を俺の誕生日にしたのだって、別に君が嫌いだったからじゃない」
 意識するよりも前に、びくりと手が反応してしまった。
「君はどうしてこんな日を誕生日にしたんだって思ってるだろうけど……俺にはこの日しかなかった。《国》としてだけじゃなくて《俺》が、この日でないと駄目だと思った」
 この日。アメリカが俺からの独立を宣言した日。
 アメリカを祝いたいと思っても尚、どうして誕生日がこの日でなければならなかったのかという思いは、俺の中から消えることはなくて。
 もしアメリカの《誕生日》がこの日でさえなかったのなら、俺はもっと早く素直にアメリカを祝えていただろう。
 どうしてアメリカがこの日を誕生日にしたのか。
 ずっと考え続けてみても、ネガティブな考えしか浮かんでこなかった。今この時でさえも。
 だけど、アメリカの手が安心させるように震えた俺の手を握りしめ直して。
「聞いて、イギリス」
 真剣な声で、願うから。
 逃げられなくなる。視線も、思考も、何もかも。
「正直、君を恨んだことも疎んだこともないとは言わないよ。俺にとっては君が全てだったから、上手くいかないことを君のせいにしたりもしたしね」
 アメリカが俺に過去のことを話すのはとても珍しい。それも彼が独立した時のことを自ら話すのは、これが初めてかもしれなかった。
 アメリカを祝いたいと思って尚、この身を苛む過去の痛み。それは今も明確にあって。
 きりきりと刺すような、胃が引き絞られるような痛みが蘇ってもくるけれど……どれほど痛みを伴おうと、今の彼の言葉を一言も聞き逃すことは出来なかった。
 彼が願う以上に、初めて語られる彼の心の内を、誰よりも俺が知りたいと思っていたのだから。
「だけど、君を嫌いになったことは一度だってなかった。それでも俺が君の手を振り払って離れたのは……」
 俺は必死に痛みを押し殺しながらアメリカの声に耳を傾ける。
 強く握っていてくれる掌が、有り難くて。けれど同時に、辛く、痛みのようにも感じる。
 振り払われた手を、向けられた銃口を、告げられた言葉を思い出して、今触れる温度さえも俺を傷つけるもののように思われて。
「君がこの世に存在しないと思ってるものに、なる為だったんだ」
 疑問詞が脳裏を過ぎった。
 俺が、この世に存在しないと思ってるものに、なる為……?
 アメリカの言葉の意味が分からぬ戸惑いが伝わったのか、微かにアメリカの声に微苦笑のようなものが混じる。
 真摯な口調が僅か和らいで、言い聞かせるような穏やかな声音でアメリカは続けた。
「君は俺を愛してくれて、あの時の俺も君が大好きだった。でもそれは途中まで、俺ばかりが守られるものだったよね」
 そう。俺はアメリカを心から愛してた。
 どうやったら上手く出来るのか分からなかったけれど、出来る限りのことをしてやりたいと思ってた。
 ようやく手に入れた安らぎを他の奴に邪魔されたくなくて、随分と自分勝手な思いから出たものだとは言え、アメリカを守る為に、完全に手に入れる為に戦うことは何ら苦痛ではなくて。
 だけどそれは……言うほど、一方的なものでなかったことをアメリカだって知っていると思っていた。
 出来る限りのものを与えて、何もかもから守ってやりたいと思っていけれど……本当は、貰ってばかりいるのは俺の方だった。
 国としての利益も。そして何より……愛情と安らぎを。
 他から決して得られず、俺が何よりも欲していたものをアメリカは俺にくれていたのだ。
 否定を、したかった。
 守られていたのは……心を、助けられていたのは俺の方なのだと。
 だけど。
「嬉しくなかったわけじゃない。だけど、俺を守る為に君が傷ついていることに気づかないほど、俺は愚かじゃなかったし、国民の不満を抑えながら黙って君の言いつけを守ることでしか君の助けになれないことが、辛かったよ。君から無理を言われることじゃない。それ以外に、君を助ける術を持っていない自分が辛かった」
 告げられた言葉のあまりの衝撃に、開きかけた口が止まった。
 思ってもみなかった。
 アメリカがあの時、そんな風に思っていてくれてたなどと、思いもしなかった。
 あの時の俺にとってアメリカは可愛い可愛い弟で。身長を追い抜かれてさえ、守ってあげなければならない幼い子供で。心配も苦労もかけまいとして強がっていたことの多くを、あの子供は分かっていたのだと思い知らされる。
 その上で、俺を心配してくれていたなんて。
 無理を強いる俺を恨み嫌いこそすれ、そんな風に思ってくれていたなど、考えもしなかった。
 ああ、だけど。
 それほど聡かったアメリカが、その成長に気づかなかった俺から独立を考えるのは当たり前のようにも思えるけれど。
 それでも、思ってしまう。
 聞いてみたことはなかった。怖くて、恐ろしすぎて。
 雨の中で二人対峙した時――――あの時より後では、聞くことは出来なかったけれど。
 嫌っていたのでないのなら。
 助けになりたいと思ってくれていたのならば、何故。
 アメリカは俺の手を振り払ったのか。
 それも、あんな形で。
 その道を選ぶ理由となったものは、何だ?
 俺が《この世に存在しないと思ってるもの》になる為というけれど。
 それは一体、なんだ。
 問いが胸の裡で渦を巻く。
 長い間……随分と長い間。
 聞きたくて、聞きたくて。でも聞けなかった問いの答えが……今なら、聞けるのだろうか。
 それこそが、アメリカが告げると決めてくれていたことならいい。
 願い、緊張の中で、アメリカの言葉を待った。
 酷く長く感じる時間を経て――アメリカが、告げる。
「君は言ったね。《国》に生まれたからには、敵か、今は敵じゃないだけの敵しかいないと。人間のように、互いを認め合い支え合い愛し合う対等な親愛など築けないと。その中で――俺だけが、例外だったって」
 長い長い間、求め続けて、けれど聞きたくないと思い続けていたものの、答えを。
「でも、俺と君もやっぱり、対等なんかじゃなかった。君は満足してると言っていたけど、俺は君から与えられるだけじゃ満足なんて出来なかった。俺は……君の言ってた、《互いに認め合い支え合える対等な》ものに、なりたかったんだ」
「……っ」
 息を、飲んだ。
 それ、は。
 確かに、言ったことがあったかもしれない言葉だった。
 まだ小さなアメリカに、自分以外を信じて欲しくなくて他に目を向けて欲しくなくて。
 そしてまだ無垢なこの子が、どうか他者に蹂躙されたりしないようにと、脅すように世の厳しさを説いた。
 決して手に入らないもの。そう断じてた、何か。
「そんなものは存在しないと君が言い切ったものに、俺はなりたかった。その為には、君に守られるだけの位置から抜け出さなきゃならなかった。どうしても、そうしなくちゃいけなかった」
 けれどアメリカを得て、変化した想いでもある。
 人間のように対等な親愛など望めなくとも、真っ直ぐに愛情を向け、そして向けられる存在があると知っただけで俺は全てに感謝したいような気持ちだったのだ。
 恐らく一度くらいしか口にしなかった筈の言葉だ。
 それを、覚えていたのか。
 覚えて……心に、刻んでいたのか。
「いつか。君の背中に守られるんじゃなくて、君と向き合って。君と隣り合って。君と歩む為に、俺は……」
 アメリカの声には、再び緊張が強く滲むようになっていた。
 躊躇うように途切れた言葉に、緊張と不安が繋いだ掌から伝染する。
 どちらからの不安なのか、緊張なのかも、もはや分からない。
 互いに細い糸の上に立ってでもいるような不安定さと……けれどもそれを超えて、先を知りたいという願望を抱えているように感じた。
 そんなものは錯覚かもしれないけれど、今は錯覚でもいいとすら思って、深く刻み混まれた傷を抉るかもしれぬ言葉を待った。 
「……銃をとった」
 耳に、脳裏に、雨の音が鳴り響く。
「君が傷つくのを知ってた。君を失うのが分かってた……いや、これは分かった気になってただけかもしれないけど。その覚悟をしてるつもりで、君への反乱へと向かう流れを止めなかった。その流れに自ら乗ったんだ」
 いつもは耳鳴りのようなそれに吐き気と嫌悪を覚える筈だが、今は何故か違う感覚に襲われていた。
 胸の裡からせり上がるような熱く苦しい感情をなんと呼べばいいのか。
 泣きたいような、叫びだしたいような、どちらでもなく黙って……ただ目の前の存在を、抱きしめたくなるような。
 傷を抉るだけの言葉だと思っていた。
 常に痛みと共にあるだけの過去だった。
 辛く苦しく身を苛むだけの過去だった。
 なのに、今。
 雨の音がこの身を塗りつぶしても。
 過去の記憶が瞼の裏に蘇っても。
 あの時に感じた世界の全てが白と黒に塗り変わり色を失った絶望が蘇っても。
 掌に触れる熱が。
 額に触れる熱が。
 触れる吐息が。
 零される声が。
 掌から伝わる鼓動が。
 うっすらと開けた目に映る、何よりも愛しい未来を目指して今を生きる存在が。
 何もかも愛しくて、冷たく凍える過去へ向かう己を引き留め、温める。
「弟のままじゃいられなかった。対等になる為には、穏やかな別れではきっと、駄目だった。それくらい君は俺を愛してくれて、俺も君を愛してた。だから……君を徹底的に傷つけて、俺はもう君とは《違うもの》なんだと示す必要があった。……少なくとも俺には、それしかなかった」
 手酷く、裏切る言葉だと思っていた。
 確かにあったと思っていた絆を、手にすることが出来たと思っていた愛を、否定する言葉だと。
『弟じゃない』
 彼が繰り返し続けた、その言葉。
 だけどそれは。
「俺の感情を抜きにしても独立は必要だったし、後悔はしてない。だから君に謝ったりは出来ないけど」
 本当は。
 否定でも、裏切るものでもなく。
「でも……これだけは、覚えていてくれよ」
 掌が再び強く握られ、合わせられた額が離れたかと思うと、違う温もりと感触が額に降ってくる。
 それが唇だと気づくと同時に与えられたのは――
「俺は絶対に、君がないと言い切った、君の望むものになるってことを」
 違う形の絆を、約束するもの――。
 
 なんだよ、それは。
 お前は……ずっと前から。あの時から。あの雨の日の、それより前から。
 そんなことを願っていたのか。求めていたのか。決めていたのか。
 脅すように口にした、世の虚しさと残酷さ。
 お前に与えられた温もりが、それほどに大事なのだと伝えたくて、一度だけ引き合いに出した言葉。
 確かにそれは、アメリカを得ない俺の根幹とすら言えるものだった。
 だけどそれを、どうして。
 お前が、なぜそこまで。
 嬉しくないわけもないが、何かを言わなければと思うのに、上手く言葉にならない。
 喉の奥にせり上がる熱いものは涙を同時に滲ませて、言葉になりきらぬ嗚咽じみた声しか出せそうになくて唇を強く噛んだ。
 だって俺は、決めつけていた。
 お前が俺を裏切ったのだと。
 離れられたことが悲しくて、悔しくて、辛くて。
 何がいけなかったのかと過去を悔いて嘆いて、お前を詰って。
 どうしようもなかったのだと、お前を苦しめたのは俺の本意ではないのだと、上司には逆らえぬのだと、よりにもよって一番してはいけない言い訳を己にして。
 それでもお前との関わりが断てずに未練がましく繋がりを求めてからだとて、お前に嫌われていると思いこんで、俺のことなど疎んでいるのだろうと思って。
 そんな風に思っていることなど、考えもしなかったのに。
 お前と生きる未来など、望みたいと願いながらも望む勇気すらもてなかったのに。

「難しいのは分かってるよ。何しろ俺はアメリカで、君はイギリスだしね。でも、俺は諦めなかったし、これからも諦めるつもりはないんだぞ」
 額から唇を離したアメリカは僅かの距離をあけて正面から視線を合わせてくる。
 空色の瞳はどこまでも真っ直ぐに澄んだ光を湛えて、彼の本気を伝えてきた。

 本当に……?
 本当に、そんなものを目指すつもりなのか。
『互いを認め合い、支え合い、愛し合う対等な存在』
 決して有り得る筈のない、夢物語よりも遠いものを望んで、ずっと……歩いてきたのか。歩いていくのか。
 それは……それは、俺の為に?
 俺が望んだものだから?
 ……どうして。
 何故、そんなことを。
 分からない。分からねーよ。
 俺はイギリスで、こいつはアメリカで。
 名目上や一時的なものとして《対等で親密な関係》になることはあるだろう。それを装おうことは。
 だが、俺達は《国》だ。
 同じものではなく、自国を何よりも優先させなければならない俺達に、本当の意味での対等など有り得ないのに。
 敵と、今は敵でないだけの敵。それだけではない、素直に愛することの出来る存在――。国としての立場はどうあれ、俺が俺として愛することの出来る存在があれば、それだけで充分なのに。
 思ってもみなかった言葉を貰った。
 嫌われていないと分かった。
 疎まれていないと分かった。
 小さなアメリカとの日々と、兄弟として抱いていた愛も、決して一方的なものでなかったのだと分かった。
 俺の望んでいたものを、目指すのだと言ってくれた。
 充分だ。
 もう、これ以上なにを望むことがあるだろうか。
 例えいつか敵になるのだとしても、これ以上など求めることなど出来はしないのに。
 それでも愛し続けることを許してくれるのならば、それだけできっと俺は生きていけるのに。
 どうして、そこまで。
 なぜ、望むのか。
 問いかけは、僅かに唇を震わせただけで声になりはしなかった。
 けれどこちらを見つめるアメリカには意図が伝わったらしく、彼は一瞬だけ宥めるような目をして。
 それから、いつも通りの快活な笑みを浮かべて、言い切った。
「それは勿論、俺がヒーローだからさ!」
 ヒーロー。
 小さな頃から、アメリカが口癖にように言っていたもの。
 ヒーローになるんだ、と。
 アメリカの思い描く《ヒーロー》とは、歴史上の英雄などではない。
 そうだ。小さな頃から彼が思い描くのは、全てを超越して、あらゆる危機を救い困難に立ち向かい、人智に負えない偉業や奇跡を成す存在のことだった。
 この世に有り得ぬ奇跡を起こすもの。
 ああ……そうか。そうだな。
 お前が望むヒーローならば、きっと出来る。
 有り得ない奇跡を起こすものになるということ。
 有り得る筈のない存在になるということ。
 二つは、とてもよく似ていて。
 小さな頃から変わることのないアメリカの根幹と揺るぎなさに安堵すら覚えて、俺は微笑おうとしたけれど――失敗する。
 当たり前のように、ヒーローになるのだと口にしていた子供。
 そうでない未来を想像できぬと、真っ直ぐに駆け抜けていった子供。
 成長し、立派な青年になってからも、その夢を捨ててなどいなかった真っ直ぐな彼が、それと同じように持ち続けていたのだ。
 俺が存在しないと決めつけていた、けれど確かにどこかで憧れていた存在になるという望みを。
 ならばそれは、叶うのかもしれない。
 当たり前のこととしてヒーローになると言い続けた子供が、当たり前のこととしてヒーローを名乗るように。既にヒーローと言える存在になっているのだと、自信を持って言い切るように。
 どれほど有り得ないと思っていたそれが、いつか当たり前になる日が来るような気が、した。
 普段ならば笑い飛ばすだろう根拠のない彼の自信が、今だけは嬉しくて。
 微笑おうとしたけれど、次々と沸き上がる感情を留めきれなくて、俺の中でいっぱいになっていた様々な感情が交ざり合わさり、涙となって溢れ出てしまった。
 もう泣くまいと思ってたっていうのに。
「イギリス……」
 そうしたらアメリカは、困ったように微笑んで。
 握りしめた両手を引き寄せながら、同時に顔を近づけてくる。
 なんだろう。また額を付き合わせるのだろうか。それとも先程と同じく、かつて幼いアメリカにした宥めるようなキスを額にするのだろうか。
 少しばかりの照れと、ほんの少しの期待が胸を過ぎる。
 涙で霞んだ視界では近づいてくるアメリカの表情をはっきりとは捉えられなかったけれど、今の俺は慌てることなくアメリカの言葉を待つことが出来た。 
 本当は何か、言わなければと思うのだけれども。
 いま口を開いても、きっと嗚咽ばかりになってまともに喋ることなど出来そうもなかったから。
 悲しいわけでもないのに次から次へと流れていく涙をそのままに、ぼやけた視界で近づいてくるアメリカの影をぼんやりと見つめる。
 ほぼ真っ直ぐに近づいてくる影に不審を覚えたのは視界がすっかりとアメリカで覆われてしまってからで。
 近すぎる、と思った時にはもう、唇に柔らかいものが触れていた。
 乾いた、柔らかい感触。
 それの答えと意味に気づいたと同時、反射的にアメリカから離れようとしたけれども、しっかりと指まで組み合わせて握られた両手は剥がれなくて焦る。
「……っ!?」
 待て。
 なんだこれ。
 なんで。
 なんで、アメリカに、キスされてんだ!?
 混乱の極地に居る俺など知らぬかのように、触れるだけのキスは長く。
 驚きの余りに呼吸をすることすら忘れていた俺がおかしかったのか、笑い混じりの吐息と共に、からかうように唇の表面を舌が撫でてから離れていった。
 な、な、な。
 何してんだこいつ!?
 何しやがってんだこいつ!?
 思い切り罵声を浴びせてやりたかったが、色々あったせいでいっぱいいっぱいなせいなのか、単純に今起きたことへの衝撃のせいなのか、上手いこと声が出ない。
 一体何がどうなってるんだ。
 わけがわからず、けれど声も出てこない俺は、きっと威力なんてないだろう目でアメリカを睨みつけるけれど。
「それとね」
 アメリカはにっこりと腹が立つほどの笑みを浮かべて、とんでもないことを言って俺を更に混乱の底に叩き落としてきたのだった。
「君が、こういう意味で好きだからなんだぞ!」
 瞬間。
 俺の思考が、停止した――。





『君が、こういう意味で好きだからなんだぞ!』

 アメリカの言葉がぐるぐると巡る。
 何が起こったのか、何を言われたのか理解できない。
 好き?
 こういう意味って、どういう意味で。
 いやそれは止めよう、今は考えるのはよそう。もっと考えるべきことがある筈だ、どこかに。
 そう。だから、と言うのなら、それはどこから繋がる言葉ということだ。
 好き『だから』、と言うのなら何かの答えで。
 遡ってみて問いらしきものがあったとするのなら。
 対等な存在になるのだと言い切ったアメリカへの、声にならぬ問い。 
 どうして、と。何故そこまで、と。
 答えは、ヒーローだから。
 そして。
『それとね』
 思い出す。
 そうだ、アメリカは。
 あの後、俺の名を呼んで、それから。
『君が、こういう意味で好きだからなんだぞ!』
 と、言ったのだ。
 なら――『好きだから、俺が望むものになる』と、そういう、ことなのだろうか。
 好きだから。
 好きだから?
 そんな、馬鹿な。
 嫌われてなかった、厭われてなかった。かつての過去の愛情も否定されたわけではなかった。
 俺に向けられる想いは確かにあったのだと、それだけでも死にそうだというのに。
「お、おま…お前、何言っ……!」
 そんな言葉、それこそアメリカが子供の頃にしか聞いたことがない。
 大きくなってからは、その単語を向けられるのはもっぱらハンバーガーやらアイスやら彼の好む食べ物ばかりで。
 それが俺に向けられるなんて、どんな意味でだって、あるわけがないのに。 
 親愛のキスなら、先程のように額でも頬でも、どこでも良かった筈で。
 あえて唇にした上で『こういう意味で』と念を押すような言葉を添えるのなら、それはやはり。
 考えたくない、いや考えたくないわけじゃなく考えられないだけで本当は分かってる。知ってる。考えるまでもなく信じたがっている。有り得ないと思うだけで、ずっと触れた瞬間から。
 あまりの事態に涙はとっくに止まっていて、今や俺の顔はきっと笑えるほどに赤いに違いない。
 ふざけるな、なんだって俺が、たかが触れるだけのキスひとつでこうも動揺しなくちゃいけないんだ。
 冷静になれ、大したことない。酔った時など、それこそもっと酷いことをそこらの人間巻き込んでやってきた。今更、男とのキスひとつでガタガタ言うことじゃない。
 言い聞かせるけれど、そんなのは無理だ。
 他の何とも比べようもない。何の参考にも、落ち着ける要素にもなるわけがない。
 だって、アメリカだ。
 アメリカなんだ。
 些細な触れ合いのひとつどころか、まともな親しみを込めた言葉ひとつさえ、交わすことが難しかったアメリカが。
 俺を、好きだと。
 そして、キスを。
 今度こそ誤魔化しようも逃れようもなく事態を把握して自覚してしまえば、一瞬にして体温が上昇した。
 な、なんだ。
 これは、俺、どうすればいいんだ。
 何を言えばいいんだ。
 俺も好きだと、言っていいのか。
 だけどそんなの、どうやって。
 大体、俺を好きって、いつから。なんで。
 俺の言語回路はさっきから空転してばかりで、まともな言葉を吐けやしない。
 なのにアメリカは妙にすっきりとした顔をして
「あー、やっと言えた!」
 なんて清々しく笑いやがる。
 くそっ、人の頭ん中をぐちゃぐちゃにしておいて、一人だけ満足してんじゃねぇ!
 大体、好きとか言うなら、俺の話聞けよ。気になるだろ普通。聞くだろ。
 俺がお前をどう思ってんのかとか。
 聞かれたとしても今の俺がまともな受け答えを出来るとは思えなかったが、未だ混乱を続ける脳内と上手く作れない言葉に八つ当たりのようにそんなことを思ってしまう。
 けれど幸いにも、アメリカへの怒りに感情の一部が向けたら、少しだけ楽になった。
 なんて言ってやればいいかはまだ分からなかったけれど、渦巻く感情が喉の辺りでぐるぐると唸れる程度には落ち着いてきたような気がしたところで、アメリカはまたも容易く、俺を突き落とす。
「イギリスも、俺が好きだろ?」
 アメリカは、さらりとそう言って、再び一瞬だけの掠めるようなキスを落としてきたのだった。
「あ」
 俺は叫びの形で一度固まった口を、何度かの呼吸を繰り返すことで凝固を解くと、どうにか今度こそ声を無理矢理にでも出した。
「お、前、なぁあああああああああああ!!」
 一度腹の底から叫んでしまえば、確かにすっきりとして頭の混乱も少しばかり収まる。
 そういえば未だ握られたままだった両手を勢いよく振り解いて、アメリカの胸倉を掴みあげてギリアメリカを睨みつけると、俺は勢いのままに叫んだ。
「お、お前なぁっ! なんでそこで『好きだろ?』とか当たり前みたいな顔して聞けるんだ!」
 なのにアメリカは、きょとんとした顔をして首を傾げるだけで。
「君、俺のこと嫌いなのかい?」
 なんて聞き返してくる。
「そういうことじゃねぇ!」
 そうじゃねぇ。そうじゃねぇだろ!
 俺がアメリカを嫌いだとか、あるわけない。
 あるわけないが、そういうことじゃなくってだなぁ!
 いつも言葉が通じにくい奴だと思ってたが、今日は輪かけて通じない。
 わざとか。わざとじゃねぇのか? と疑いたくもなる。
 胸倉掴まれている筈のアメリカは、「分からないなぁ」と小さく呟くと、心底不思議そうに俺の顔を覗き込んでから、にこりと笑った。
 その邪気のない笑顔に嫌な予感しかしないのは、俺の気のせいじゃないと思う。
「俺は君が好きだぞ。恋人になって、キスしたいし抱きしめたいしセックスしたい。……って、さっきからずっと思ってるんだけど、してもいいよね? 反対意見は認めないぞ!」
 は?
 いま……アメリカは一息になんだか……とんでもないことを言ったような……。
 何度か言われた内容を反芻して、理解すると同時にぐわーっと頭に血が上るのが分かる。
「それ聞いてないだろ確定だろ疑問視の意味ねぇだろ、いきなり勝手なことばっか言ってんじゃねぇよばかぁ!」
 血が上るのも顔が赤くなるのも全て怒りのせいに出来ればいいのにと思いながら、襲い来る恥ずかしさを誤魔化す為に掴んだアメリカの胸倉を揺するが、堪えているようにはとても見えない。「えー」と不満げに声を発しているだけだ。
 なんでお前そんな自信満々なんだ。
 ヒーローになると。俺が望むものになると言い切った時には安心できたこの無駄な自信も、やはりこうしてみると厄介なものでしかない。
 あんなものに安心してしまった自分がバカみたいだ。
 どうしてお前は俺がお前のこと大好きだって、当たり前みたいに言うんだ。
 俺はお前を好きなんだと気づいただけで、頭の中がぐるぐるとおかしなことになって、バレないようにしなければと必死だったというのに。
 俺はお前に好きだとか言われて、更に頭ん中がぐちゃぐちゃで訳が分からなくなって、上手く言葉も探せないのに。
 ガキのくせに年下のくせに、平気な顔をしてさらっと爆弾ばかり落としていきやがってこの野郎。冗談じゃねーぞ大英帝国様なめんのもいい加減にしやがれ。
 なんて。どうやったらこのクソガキに一泡吹かせてやれるだろうかと考えていたってのに。
「イギリスは、俺のこと好きかい?」
 今度は、真っ正面からそんなことを聞いてくるものだから。
 言ってやろうと思っていた山ほどの文句も罵倒もスラングも何もかもが喉の奥につかえてしまって出せなくなり、飲み込まざるを得なくなる。
 あ~~~~~~~~っ、たく!!
 罵倒の全てを飲み込んでしまえば、真っ正面から聞かれた問いに対する答えなんてもうひとつしかない。
 ギリギリと襟元締め上げるようにしながら、忌々しげに俺は言い放つ。
「お前のことなんて、どうせ好きだよ、くそっ!」
 だけど俺は今きっと、最悪に変な顔をしてるに違いない。不機嫌な顔をとりたくて失敗した変な顔をアメリカに見られたくなくて顔を逸らしたが、アメリカはそんなことすら構わずに、突然ぎゅーっとこちらを抱きしめてきた。思い切り、力一杯に。
「ありがとう、イギリス。今日は最高の誕生日だ!」
「ぎゃーっ!!」
 痛い苦しい潰れる肺が肋骨が空気が……っ!
 喜んでくれるのは嬉しいが、俺はリアルに生命の危機だ。この馬鹿力! 加減を知れ、加減を!
 ギブアップを告げる為にアメリカの肩をバンバンと強く叩くがなかなか気づいて貰えず、抱きしめる腕の力が緩められてまともな呼吸を確保するまでに、そこから十秒は必要とするハメになった。 しかも緩めただけで、離さねーしコイツ。
 今日のアメリカは、本当に接触過剰だ……。
 緩められたお陰で動かせるようになった腕を伸ばし、こちらを抱きしめてくるアメリカの背に回して広い背中を宥めるみたいにして撫でてやる。
 そうすればアメリカは嬉しそうに頬をすり寄せてきて、昔を彷彿とさせる無邪気な仕草に笑いを誘われた。
 甘えてくれてるのかと思うと悪い気はしないが、何しろ今と昔じゃ事情が違いすぎる。
 あの頃は当たり前だったアメリカから向けられる好意は、今の俺には馴染みなく躊躇ってしまうものだ。
 少しでも近づきたいと望んでいたとは言え、現実になることなんか正直想定ていなかったから、どう反応していいか分からなくて困る。
 ……嘘みたいだが、アメリカは本当に俺のことが好きなんだな……。
 じゃあ今までの態度は一体なんなんだと思いもするが、今日のアメリカの態度の一つ一つに俺が思いも寄らなかった理由が隠れていたように、アメリカにしか分からない理由があるのかもしれない。
 それにしても……これから俺は、どうすればいいんだ。
 アメリカが俺を好きだと言って、俺もアメリカが好きだ。
 それはいいのだが、この先、どうするのだろう。恋人なんてものに、なるのだろうか。 
 それは、素直に喜んでもいいのなのか?
 色々と問題がある気はする。何しろ俺達は人間じゃなく《国》なのだし。こいつはアメリカで俺はイギリスで。友好国ではあるけれど、もう同じものではない。無条件に信頼できるような間柄ではない。
 国であるという問題点に比べてしまえば些細なことだが、一応は見た目も男同士なことだし。
 恋愛感情や肉欲の対象として見るには、不的確で不便なことばかりなのは分かり切っている。
 お互いが好きあってたって、どうしようもないものはあって。俺とアメリカなんて、それこそどうにもなるわけがないと、思うのだが。
 今日一日で色々ありすぎて混乱しているせいなのか、不調のせいなのか。未来に対する不安や疑念を認識している割に、何故だかそれらはとても遠くて、なんとかなってしまうような気がする。
『互いを認め合い、支え合い、愛し合う対等な存在』
 アメリカは、国になど持ち得る筈のないそれになってみせると豪語したのだ。
 それに比べたら、恋人なんて軽いものじゃないか。
 珍しくそんな前向きな気分になっていた俺は、アメリカの背に回していた腕に少しだけ力をこめて抱きしめた。
「アメリカ……」
 意識して自ら触れてみると、じんわりと暖かな気持ちが広がっていく。
 遠慮無くアメリカに触れるのなんて、アメリカがまだ見た目十二~三歳の頃以来だ。それを思えば奇跡のような今に、感謝しないわけがない。
 恐らく何百年も前から好きだったなんて気づくと同時に、叶うことなどないと分かっていた想いだ。
 拒否されることも、迷惑がられることも、鬱陶しがられることもなくアメリカに触れられることが、たまらなく嬉しい。
 思考の片隅では次から次へと問題が思い浮かんではいるけれど、少なくとも今は、それだけで未来の問題なんてうち捨ててしまえるような気がする。
 と、珍しくも前向きに至極幸せな気分を堪能していた俺は、抱きしめていたアメリカが身じろぎしてごそごそと動き始めても暫くは寝入る前の子供が落ち着く態勢を探しているようなものだろうと微笑ましく思っていたのだが。
「……っ」
 唐突に違和感に気づいて、背中に回していた腕を戻し、その手でアメリカの肩辺りを押して突き放す。
「何やってんだお前……っ!」
 人が幸せに浸っている間に、いつの間にやらネクタイが外され、シャツのボタンは幾つかが外されていて、裾もスラックスから引き出されていた。
 珍しく甘えてくれてるのだと思って油断していた俺も俺だが、それにしたって。
「何って、脱がしてるんだぞ。あ……まさか君、着たままが好きとかマニアックな趣味?」
 しかも当たり前のように言いやがる。つーか後半、一体なんだ。着たままくらいでマニアックとか言うな。
「そうじゃねーだろっ。何考えてんだ」
 意図は、分からない訳じゃない。
 アメリカは俺を好きだと言って、俺もアメリカを好きだと言った。
 互いのその感情が恋情だというのはもう明白で、時刻は夜だし、室内は薄暗いし、考えてみたらここはベッドの上。
 ベッド横に置かれてた椅子に座っていた筈のアメリカは、今は殆どベッドに乗り上げるような態勢で俺の肩を掴んでいる。
 そんな状況で服を脱がそうとしていることの意図なぞ、分からない筈がない。分からない筈がないが、俺の頭の中ではそういったものとアメリカが、どうにも結びつかなくて戸惑う。
「別に着たままでもいいけど、俺は脱がせたいぞ」
「だから、脱ぐ脱がないの以前の問題だ!」
「何言ってるんだい、君。わけわかんないよ」
「俺の方がわけわかんねぇよ!?」
 口を尖らせて拗ねた顔をしながらも、再びシャツのボタンを外そうとしてくる手を掴んでなんとか止めた。
 ちょっと待て。ちょっと待て。
 これは、やはり。
「……お前……まさかとは思うが……俺とヤる気か?」
 ごくりと唾を飲み込んでから勇気を出して聞けば、アメリカは拗ねた顔から一転して目を細めた冷たい顔をとってみせる。
「俺はさっき、ちゃんと言ったぞ。まさかとは思うけど、そういうこと全く考えずに『好きだ』って言いました、なんて言わないだろうね?」
「うっ……」
 さらに先回りして釘を刺す形で問い返され、俺は言葉に詰まった。
 正直、考えていなかったので何も言い返せない。
 そもそも、そういう意味でアメリカが好きだと自覚したのだって今日のことだし、気づいた途端に諦めるしかないと思っていたのだから、具体的なことまで考えている余裕などなかった。
「そんなことだろうとは思ってたけどさ。……この上、さっきのは『弟としての好き』でした、なんて言い出したら、いくらヒーローの俺でも君を許す自信はないぞ!」
 なのに、変に勘ぐったアメリカに冷ややかな目で念を押される。
「言わねぇよ!」
 今日話してくれた内容を考えるとアメリカが俺に弟扱いされたがらないのも良く分かったし、俺だって本当はずっと前から弟として見てなかったのだと気づいてたので、強い調子で否定した。
「どうだか」
 アメリカの視線は冷たいままで、表情には強い不信が見てとれる。
 ……そりゃ、俺はアメリカが嫌がってるの知ってても頑なに兄ぶった態度をとり続けていたが。
 アメリカに関わっていたくて取っていた今までの態度は、相当根深く残ってしまっているのだろうか。
 さっきの口ぶりだと、アメリカが俺を好きになったのはここ最近ってわけでもなさそうだ。あの時のまだ幼さの残るアメリカの面影を思うと信じたくないが、ともしたら独立前からかもしれない。
 そう考えるとアメリカへの申し訳なさも湧いてきて、自分でも気づいたばかりと言っていい想いをどう言えばいいのかと苦労しながらも、言葉を口にする。
「俺がお前のことを弟だと思ってたのは……お前が独立するまでだ。その後は、弟なんて思ってない」
「嘘だ。君、散々俺のことを弟扱いしてたじゃないか」
 拗ねた口調と眇められたままの目に怯むが、誤解は解かないと。
「それは……そうでもしねぇと、お前と関われないじゃねーか。それに、お前が好きだって気づいたのが今日なんだから、しょうがねーだろ!」
 大体だ。『そう思ってんなら、なんであんな扱いなんだ』ってのは俺だって言いたい。
 お前、俺の扱い悪すぎだろ! お前が俺に向けてる感情なんて、ウザイか限りなく嫌われてるに近い無関心だと思ってたんだぞ俺は!
 流石にそんな恨み全開な主張をするのはプライドが許さなくて喉の奥に押し込めたが、代わりに口にした言葉が恨み言めいて響いてしまったのは仕方がないだろう。
 睨むようにアメリカを見上げれば、奴はまだ不満そうな顔。
 はぁ、とわざとらしく溜息をひとつついて、大仰に肩を竦めてみせるのが嫌味だ。
「俺のこと好きだって気づいたのが今日だって?」
「……ああ」
 事実なので頷けば、アメリカはまたも盛大に溜息をつきなおしてから、これまた大仰に頭を抱えて嘆いてみせる。





「ジーザス! 最悪だよ君。鈍いにも程があるんだぞ。そこまで致命的だとは思わなかった!」
「な……っ。それはお前の態度が悪いんだろ!」
 その嘆きに俺もムカついてしまったら止まらなくて、後はもう売り言葉に買い言葉だ。
「俺はめいっぱい君にアピールしてたよ。君だけ、どれだけ特別扱いしてたと思ってるんだい!」
「はぁ!? おっ前、特別扱いの意味がちげーよ! 特別、雑に扱ってたの間違いだろ!」
「だから、それだけ君に気を許してるってことじゃないか。分かりなよそれくらい!」
「分かるかばかぁ! 俺は、お前にうざいって思われて距離置かれてんだとずっと……!」
「君、実は空気読めないだろ!」
「お前が言うなぁ!」
 気が付けば、ベッドの上で二人して互いに大声で怒鳴りあって、ぜーはーと息を乱している。
 アメリカの話を黙って聞いてた時のような緊張を孕みながらも穏やかな空気など微塵もなくて、けれどこっちの方が俺達らしい気がした。
 互いに遠慮なんてないような「なんてムカつくんだこいつ!」という目で睨みあっている現状との差を思えば、不意におかしくなって曲げていた口が緩んで笑みに変わっていく。
「ふ……」
 ついでに吹き出すほど強くもない笑みを含んだ呼気が漏れれば、対するアメリカも怒った顔を維持しようとして失敗した奇妙な顔になって――それから、諦めたように笑み崩れた。
「はは。なんか、おかしいな」
「ほんとにな」
 ここまで来るのに、一体どれだけの回り道をしたのだろうと思う。
 アメリカと、徹底的に決別したと思った。
 植民地を失うことよりも、たった一人愛した子供に背を向けられたことが怖かった。
 嫌われたのだと、あの時感じた愛情も全ては勘違いだったのだと思った。
 それでも弟として未練を残して、関わらずにはいられなかった。
 そんな態度を疎まれて、嫌われて、もう無関係な人間なんだと思い知らされるようで、アメリカから雑に扱われるのが辛かった。
 ――だけど。
 互いにさらけ出してしまえば、たったこれだけのことだった。
 アメリカにはアメリカの理由があって。どうにもならない事情はあっても、向けられていた想いは決して偽りじゃなく。
 疎まれていたわけでも、嫌われていたわけでもなくて。
 それどころか、好きだと言ってくれた。
 俺がへこんでいた態度の殆どが、悪気のない好意的な意味での特別扱いだったというのは、未だにふざけんなコラとは思うけど。
 蓋を開けてみれば、ただそれだけのことで。
 だけど、それだけのことが、こんなにも大切で。
 それだけことに辿りつく為に、やっぱり俺達にはこれだけの遠回りが必要だったのだろうと思うと、やはりおかしい。
「アメリカ」
「ん? なんだい」
 呼びかければすぐに応えてくる声は冷たさなど微塵も含んでおらず、それが嬉しくて、こちらに視線を落としてきたアメリカへと顔を寄せて、今度はこちらから軽く口づける。
「……っ」
 触れただけですぐ離れる軽いものだったが、予想していなかったのか珍しく狼狽えた様子で顔を赤くしているアメリカに、俺は肩を軽く叩いてやりながら笑って言った。
「続きは、また今度な」
 目を丸くしているのを視界の端に捉えて、また笑い出したくなったのを堪える。
 ここで吹き出したりしたら、恐らく腹を立てたアメリカにまたベッドへ引き戻されそうだ。
 そんなことになる前、アメリカが呆然としている内に俺はベッドを下り、シャツのボタンを留め直して裾も直す。
 視線を巡らせれば、近くの壁にハンガーに掛けられたジャケットが吊されているのが見えて、そちらに歩いていった。
 と、背後からアメリカの声があがる。
「最悪だな、君は!」
 嘆く声は悲痛なようだけれども冗談めかした響きをもっていて、ぶつくさとまだ文句を続けながらアメリカも立ち上がったのが音だけでも分かった。
「パーティー、終わってないんだろ? お前はホストなんだから、ちゃんと務めを果たしてこい」
 ジャケットを羽織りながら窘めるように言うと、アメリカはいっそう拗ねた顔になってそっぽをむく。
「俺の誕生日パーティーなんだから、俺が好きなことしてたって、いいじゃないか」
「ばーか。他の奴等はともかく、日本なんかは挨拶してからでないと、気にして帰れないだろ」
 我が侭言うな、と小言めいたことを言ってみるが、いつもより口調が柔らかくなってしまうのは、どうしようもない。
「分かった、分かったよ。まったく君は、恋人になっても口うるさいね!」
 悪かったな! と反論しようとして、アメリカが何気なく口にした《恋人》の単語に開きかけた口が固まった。
 あー、そうか。そうだよな。やっぱり、そういうことに、なるんだよな。
 アメリカの気持ちを分かったつもりで、俺はやっぱりいまいち分かりきっていないのかもしれない。
 ぽかんとした俺を見てアメリカがまた眉を潜め目を眇めそうになったのに気づき、俺は慌てて言葉を返した。
「あ、あたり前だ。これからは俺も遠慮しねーからな。覚悟しとけよ。何しろ、その……恋人だしな!」
 なんだか恥ずかしい台詞になってしまったが、アメリカが誤解をしない為なら多少の恥ずかしさは我慢しなければならないだろう。
 幸い恥ずかしい思いをした甲斐はあったようで、アメリカは一転して満面の笑顔になると、勢いよく背から抱きついてきた。
「そうだね! 口うるさくて古くさくてケチくさくて、だけど可愛い俺の恋人だからね、君は! しょうがないから、たまには言うこと聞いてあげるよ!」
 言ってる内容は相変わらずに褒めてんだか貶してんだが微妙すぎるものだったが、アメリカが嬉しそうなのは確かなようなので今は気にしないことにする。
 デリカシーのない言葉はともかくとして、ぎゅ、と抱きしめられる感覚は素直にアメリカからの好意を伝えてくれてたから、俺も自然と笑みを浮かべた。
「じゃ、行くぞ」
「うん。……あ」
 抱きついてきているアメリカの手を軽く叩いて促すと、頷きかけたアメリカが、ふと気づいたといった風な声をあげる。
 なんだろうと思って首だけ振り返れば、まだ俺に抱きついたままのアメリカが片腕だけを外して、ベッドサイドの方を指さした。
 釣られて視線をそちらへと向ける。
「あ……」
 そこには、俺が持ってきたアメリカへの誕生日プレゼントの入った袋が置かれていた。
 そういえば……まだ渡してなかったのだった。
「君からのプレゼント、まだ貰ってないぞ」
「お前が受け取らなかったんだろーが」
 アメリカの指摘にわざと顔をしかめてみせたけれど、今は悲しくなったりも辛くなったりもしない。
 それどころか、少しばかり意地悪をしてやるような気持ちで、言ってみた。
「プレゼント渡したら、とっとと帰っちゃいそうなイギリスがいけないんだぞ」
 そうしたらアメリカはまた拗ねた口調になって、俺の肩口に顎をのせてぐりぐりと押してくる。
「ずっと居ただろ」
「でも何度も俺から離れようとした」
「そりゃあ……パーティーのホストを独り占めするわけにはいかないじゃねぇか」
 こうやって拗ねてみせる姿は、かつて『帰っちゃ嫌だ』と駄々をこねていた子供を思い起こさせた。
 けれど図体は三倍以上だし、拗ねた原因も考えると、とても可愛いとは思えないものの筈なのに、何故だか可愛く思えて困る。
「……不安だったんだぞ」
 素直に感情を吐露されれば、つられるように微笑がこぼれた。
「ばーか、俺もだ」
 不安だった。苦しかった。辛かった。
 なのに今は、こんなにも嬉しくて、穏やかな気分だ。
 その不思議さにすら暖かさを覚えて、俺はアメリカを背に張り付かせたまま数歩だけ近づき、紙袋を手にとる。
 袋の中に片手を入れて一番下に入っていた小さな包みをそっと取り出すと、俺の首の辺りにぶら下がっているアメリカの手に握らせた。
 そうしてから、アメリカの腕の中でくるりと振り返って正面から向き合う。
 アメリカの大きな掌になら収まってしまう程度の包み。
 ダミーでもなんでもない、正真正銘、俺がアメリカに貰って欲しくて買ってきたプレゼントだった。
 ずっと渡したかったそれを渡すのだから、ちゃんとしないとな。
「改めて……誕生日おめでとう、アメリカ」
 この日を楽しみにする気持ちを嘲笑うかのように悪くなる体調と沈む意識の中で、アメリカからの招待状と手紙と、このプレゼントを渡すのだという想いが俺の中での支えだった。
 この日に、お前を祝うのだという。もう無理なのかと思いながらも、諦めたくない、絶対に直接会って祝うのだという想いが、いま俺を、この場に立たせている。
「開けて、いいかい?」
 聞くまでもないそれに笑って頷いてやれば、俺を腕の囲いから解いたアメリカは、らしくなく慎重な様子でプレゼントの包装を剥がして、中から現れた箱を恐る恐るといった体で開いた。
 流石に、その瞬間は緊張する。
 間違いなくアメリカの趣味ではないと、俺の趣味で選んでしまった物だという自覚があるだけに、受け取って貰えたとしても喜んでくれるかどうかまでは楽観できなくて。
 期待に満ちて輝いているその瞳が失望に彩られるのではないかと、固唾を飲んで見守っていた。
 そうして見守る中、箱を開けたアメリカの瞳は一度、驚愕に見開かれて。
 それから、戸惑ったような視線が俺に向けられて、ひやりとする。
 やっぱり好みじゃ……ないよな。
「わ、悪かったな。日本みたいに、お前の喜びそうなモンじゃなくて」
 見た瞬間に瞳を輝かせて感動するようなプレゼントを、用意してみたかったのが。
 しょうがない。これは俺が俺の欲望に負けた結果だ。覚悟してたことだしな。
 俺がアメリカに贈ったのは、アメリカの瞳と同じ色の石があしらわれたシルバーのカフリンクスとネクタイピンのセットだった。
 シンプルだけど品の良いデザインは、最近の大人っぽさを増したアメリカにきっと似合うだろうと見た瞬間に思ってしまって。
 こんなのアメリカが喜ぶわけないと分かっていたけれど、結局は耐えきれずに買ってしまったものだった。
 スーツをあまり好まず、着たとしても着崩すことばかりでキッチリ身につけることなど殆どないアメリカがこんなものをつけたがるわけはないと分かっていたのだが……。
「けど……その、お前に、似合うと思って……。だから、なんだ。恋人とか言うなら、一度くらいは、つけてみて欲しいっつうか」
 言っていいものか迷ったが、アメリカが俺を恋人だと思ってくれているのなら、少しくらいの我が侭は許されるんじゃないかと思って、しどろもどろになりながらも希望をなんとか告げてみる。
 が、実際に口にしてしまうと途端に恥ずかしさが襲ってきて、誤魔化すように視線を逸らして言ってしまう。
「べ、別にキッチリしたスーツでこれつけたお前は絶対格好良いから見てみたいとか思ってるわけじゃねぇからな!?」
 しょうがないだろう。俺は昔から、アメリカがきちっと正装している姿が好きなのだ。別に普段が悪いわけじゃないが、その方がより格好良いと思って……るわけじゃないけどな! うん、全くそんなこと思ってねーぞ。実際に身につけた姿を想像してしまって、その姿にうっとりとかしてないからな、全然!
 言い捨てるように早口で告げれば、アメリカは盛大に吹き出してゲラゲラと笑いながら箱をぱたんと閉じる。
「なっ。笑ってんじゃねー!」
「笑うよ。君って本当に俺のこと大好きだよね」
「……っ!!」
 な、な、な。
 そりゃあ俺はアメリカのことが大好きだが、本人に面白そうに言われるのは心外極まりない。
 さっきまでは子供みたいに甘えてきて可愛かったっていうのに、この余裕ぶった笑みはなんだ。
 態度の違いに腹が立って、俺は山ほど文句を言ってやろうと口を開きかけたのだけれども。
「ありがとう、イギリス。すっごく嬉しいぞ!」
 破顔したアメリカが本当に嬉しそうに言って、今度は正面からまた抱きしめてくるから。
 結局また文句なんて全て消え失せて、俺は何も言えなくなる。
「今日もらったプレゼントで一番嬉しい。本当だぞ!」
 流石にそれは嘘だ。日本はまたアメリカの大好きなゲームを持ってきてたし、フランスだって今年はアメリカも好んで食べる特大のケーキ(ただし派手な色彩はついてない)を贈ってた。リトアニアはくじらと宇宙人と一緒に作ったといって謎の造形物(でもアメリカは「すっごくクールだよ!」と大喜びしていた)を贈っていたし、他にも色々。
 こんなアメリカの趣味にまるで合ってないプレゼントが、一番嬉しかったなんてこと、あるわけがない。
「おい、別にそんな無理しなくてもいいんだぞ……?」
 腹が立っていた筈なのに、こんな風な気遣いを俺なんかにするアメリカというのがどうにも落ち着かなくて、安心させるようにアメリカの腕を軽く撫でる。
 けれど、アメリカは憮然とした声で答えてきた。
「どうして無理だと思うのか理解に苦しむぞ、俺は」
「え……だってお前、好きじゃねーだろ。こういうの」
 わけがわからない。といった体でいえば、アメリカの口から零れるのは、またもわざとらしい溜息。
「あのね。例えば日本からジャパニーズ・キモノを『似合うと思った』って贈られたとして、着物なんか普段は着ないからって喜ばないのかい、君は?」
 アメリカの出してきた例えに想像を巡らせてみれば、答えなんて考えるまでもなくノーで。
「喜ぶに決まってんだろ」
「だったら! どうして俺が喜ばないって思うんだよ。君は俺のこと大好きすぎて、たまに凄くバカだな!」
「バカって言うことないだろばかぁ!」
 確かに、そうだ。珍しくアメリカの例えは的を射ていて、すとんと俺を納得させてくれた。
 とは言え、『アメリカのことを大好きすぎてバカ』というのは却下と激しい抗議を行いたいが。
「カッコイイ俺が見たいっていう、可愛い恋人のお願いくらい、いくらだって叶えてあげるんだぞ。何しろ俺はヒーローだからね!」
 なんて。また突拍子もないことを言い出すから、反論どころじゃなくなってしまうのだ。
「なっ、ばっ、おま……!」
 ったく、どこからどう突っ込めばいいんだ!
 だから俺は別に見たいとか言ってるわけじゃないし、自分で自分をカッコイイって言うなとか、可愛い恋人ってなんだ恥ずかしいこと言ってんじゃねぇばかとか、ヒーロー関係ねーだろとか。
 言いたいことは山ほどある筈で、だけど今そんな反論をしても何故だかアメリカに勝てる気が全くしなかった俺は、赤くなる顔を隠すようにしてアメリカの腕を振り解き、足音荒く歩き出す。
「おら、とっととパーティーに戻るぞ! ちゃんとビシっと決めてこいバカメリカ!」
 振り返らず真っ直ぐドアへと向かう俺の背に聞こえるのは、またも「やれやれ」と言いたそうな溜息。
 けれど暗い色はなく、どことなく面白がっているような風情には、文句よりも恥ずかしさが先に立ってしまって参る。
 甘えたのくせに、たまに見せるああいう余裕ぶった態度に腹が立ってしょうがない。同時に、何故か恥ずかしいというか居たたまれない気分になるから。
 アメリカを待たずにドアノブに手をかけて回せば、さして急ぐ風でもない足音が背後から聞こえてきた。
「しょうがないなー。それじゃ、さっさと終わらせようか!」
「お前なぁ、自分の誕生日だろ。ちゃんとしろよ」
 酷い言い様に、さすがに放っておけなくて俺は開けたドアを自分の身体で押さえた状態で振り返り、眉根を寄せる。
 お前の為に、皆わざわざ集まってきてくれてるんだろうが。
 そう言おうとした口は、
「やーなこった☆」
 またも、アメリカに塞がれる。
 拒否を告げる言葉と、それから降りてきた唇で。
 その上、一瞬だけ触れた後で音を立てて離した唇で、堂々とアメリカは言い放つ。
「俺は早く、君と二人っきりでイチャイチャしたいからね!」
 まったく堂々と言うべきでない台詞を、憎らしいくらい誇らしげに。
「~~~~~~~~ッ」
 まったくもって、今日の俺は散々だと思う。
 一体何度、こうして盛大な文句を飲み込まされてきたことか。
 だけど一番に最悪なのは。
「んなこと堂々と言ってんじゃねぇ、ばかぁー!」
 散々だと思うこの状況を、どうしようもなく幸せだと思ってしまう自分自身なのだろう。





 あの日に謳ったよろこびの歌を、今でも覚えている。
 生まれてくれたよろこび。
 出会えたよろこび。
 共に過ごしたよろこび。
 争いは幾度となくあっても、こうして向き合えるよろこび。
 それらはきっと、絶えることなく己の中で謳われてきたもの。
 そして今、また。
 心のどこかで憧れ、けれどある筈もないと切り捨てていたものになると誓ってくれた心を、よろこばぬわけがない。
 散々なことも、どうしようもないことも、これからもっとあるだろう。
 俺の望むものになると言った、その誓いが達せられる日など来ない可能性の方が高くて。
 けれど。
 この世界で。長い歴史の中で。お前だけがこの身に愛を教え、与え、与えることを赦し、そして刻んだ。
 ならば何が起こっても、再び互いに争い決別する日が来たとしても――きっと消えることはない。
 お前の瞳と同じ色をした空の下で、ずっと、絶えることなく響きつづけるのだろう。

 刻みこまれた愛と、お前に捧げる、《よろこびのうた》が――。
 



畳む

#米英

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